日立ハローサタデー
日立ハローサタデー(ひたちハローサタデー)は、1970年代から1990年代にかけて文化放送で毎週土曜日に放送したラジオ番組。
日立ハローサタデー HITACHI Hello Saturday | |
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ジャンル | 音楽番組/バラエティ番組 |
放送方式 | 生放送 |
放送期間 | 1977年10月1日 - 1991年10月5日 |
放送時間 | 土曜17:00 - 18:00 |
放送局 | 文化放送 |
パーソナリティ | 下記参照 |
提供 | 日立製作所 |
概要
編集1977年10月1日から1991年10月5日まで、14年間放送した。日立製作所の一社提供番組で、当初は『Lo-D YOUNG SOUND』がサブタイトルに付いていた。番組後期は『日立ハローサタデー・マジカルチャンネル』がサブタイトルとなった。
当初から、東京・銀座の日立ローディープラザからの公開生放送で、歌手、アイドルなどのゲストによるミニコンサートとトークを生中継していた。1981年当時は、小林まさひろの中継コーナー『小林くんの外回りコーナー』が存在し、1986年当時(『チャゲ&優子のミュージックプラザ』時代)は、番組前半はトークとはがき紹介・ヒット曲紹介の録音パート、後半はローディープラザから大久保良太の司会による生放送の“半録半生”の構成だった[1]。また、『小堺一機のヤングプラザ』時代には『今週の名セリフ』[2]、『カズキダス』(小堺が独断と偏見で解説するコーナー)、『オープン留守番電話』(リスナーの留守電メッセージを紹介)などのコーナーがあった[3]。中継コーナーでは当時小堺と同じ事務所に所属していた堀敏彦(後にテレビ新潟アナウンサー)が担当したが、仕事の都合で代役を務めた回もあった。
また、当番組の主な企画には『作詞大賞』[3]、『マジカル劇団オーディション』(第一期生オーディション開催は1989年6月)[4]などがあった。
『ミュージックプラザ』時代のオープニングテーマ曲は、RAH bandの曲『Roll me dewn to Rio』、エンディング曲はThe funky fish filletの曲『メゾ・フォルテ』[5]だった。
パーソナリティー
編集- 山本伸吾・志賀正浩(初代パーソナリティ、1977年10月1日 - 1978年9月)
- 橋本テツヤ(1978年10月 - 1980年3月29日)
- 所ジョージ(1980年4月5日 - 1981年4月4日)
- 九十九一(1981年4月11日 - 1982年10月2日)
- 鈴木ヒロミツ・川口雅代(1982年10月9日 - 1983年9月10日)
- 谷村新司(1983年10月1日 - 1984年9月29日。タイトルは『谷村新司のミュージックプラザ』)
- チャゲ・石川優子(1984年10月6日 - 1987年5月30日。タイトルは『チャゲ&優子のミュージックプラザ』)
- 小堺一機・島田奈美(1987年6月6日 - 1991年10月5日。タイトルは『小堺一機のヤングプラザ』)
脚注
編集- ^ 月刊ラジオパラダイス 1986年11月号「石川優子インタビュー」より。
- ^ 当時の各新聞縮刷版ラジオ欄より。
- ^ a b 月刊ラジオパラダイス 1988年10月号「ラジパラタイムス」(68ページ)より。
- ^ 月刊ラジオパラダイス 1989年7月号「ラジパラタイムス」より。
- ^ 月刊ラジオパラダイス 1987年2月号 p.102「テーマ曲Q&A」
文化放送 土曜17:00 - 18:00枠 | ||
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