新島 清(にいじま きよし、1915年 4月30日- 1998年11月10日)は、日本福岡県ラグビー選手、指導者。ポジションはNO8(ナンバーエイト)

経歴

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福岡中学(現・福岡県立福岡高等学校)からラグビーを始め、明治大学へと進学し1939年には主将として活躍し優勝を経験。明治大学時代には、寝る間も惜しんで布団の中で、ドリブルの練習をしていたほどラグビー一筋の人物だった。卒業後は配炭公団へ進む。同チームでも主将を務め、第1回全国実業団ラグビーフットボール大会全国社会人大会)の優勝をもたらした。またラグビー日本代表の主将として、1952年の在韓ニュージーランド部隊戦(ノンキャップ試合)に出場した[1]

現役引退後は母校の福岡高校監督に就任。福岡高校監督時代には福岡県予選決勝で『グランドで死んで来い!骨は俺が拾ってやる!』と選手たちを一喝し、前評判を覆して当時の国体優勝校である福岡電波高校(現福岡工業大学附属城東高等学校)に勝利し花園出場を決めた。その後、全九州ラグビー代表監督や九州ラグビー協会の理事長を歴任[1]

1998年11月10日に83歳で逝去[1]

脚注

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関連項目

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