斛律平
斛律 平(こくりつ へい、生没年不詳)は、中国の北魏末から北斉にかけての軍人。朔州勅勒部の出身[1][2][3]。斛律金の兄にあたる[4][5][6]。
経歴
編集北魏の光禄大夫の斛律大那瓌の子として生まれた。景明年間、殿中将軍として召され、襄威将軍に転じた。六鎮の乱が起こると、斛律平は大将軍の尉賓の下で北伐したが、敗れて反乱側に捕らえられた。後に弟の斛律金とともに雲州で逃亡して、再び北魏に帰順し、龍驤将軍に進んだ。斛律金とともに部衆を率いて南に向かい、黄瓜堆にいたって杜洛周に敗れ、部衆はばらばらになった。斛律平は爾朱栄に従って、父の第一領民酋長の爵位を継いだ[7][5][6]。
普泰元年(531年)、高歓が信都で起兵すると、斛律平は都督として従った。平北将軍・顕州刺史に転じ、鎮南将軍の号を加えられ、固安県伯に封じられた。まもなく爵位は侯に進み、肆州刺史を代行した。宇文泰が右将軍の李小光を梁州に駐屯させると、斛律平はこれを攻撃して捕らえた。燕州刺史として出向し、のちに召されて左衛将軍を兼ねた[8][9][6]。天平4年(537年)、梁州刺史の鹿悆が西魏に降ると、斛律平は宋顕と大梁で合流した[10]。武定4年(546年)、北徐州の鄭土定が郎中を号して州城を占拠すると、斛律平はこの反乱を討って鎮圧した[11]。済州刺史に任じられた。武定6年(548年)、侯景が長江を渡ると、斛律平は大都督となり、青州刺史の敬顕儁や左衛将軍の厙狄伏連らを率いて寿陽・宿預の30城あまりを平定した。済州に帰ると、開府の位を加えられ、驃騎大将軍に進み、爵位は公となった。天保元年(550年)、北斉が建国されると、陽羡侯の別封を受けた。兗州刺史を代行したが、不正な蓄財のために罷免された。後に開府儀同三司となった。天保10年(559年)、廃帝が即位すると、特進となり、滄州楽陵郡を食邑とした。皇建元年(560年)、定陽郡公に封じられ、護軍に任じられた。後に青州刺史となり、死去した。太尉の位を追贈された[8][9][6]。
脚注
編集伝記資料
編集参考文献
編集- 氣賀澤保規『中国史書入門 現代語訳北斉書』勉誠出版、2021年。ISBN 978-4-585-29612-6。
- 『北斉書』中華書局、1972年。ISBN 7-101-00314-1。
- 『北史』中華書局、1974年。ISBN 7-101-00318-4。
- 『魏書』中華書局、1974年。ISBN 7-101-00313-3。