斎藤義次
日本の陸軍軍人
斎藤 義次(さいとう よしつぐ、1890年(明治23年)11月23日 - 1944年(昭和19年)7月6日)は、日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍中将。
生誕 |
1890年11月23日 大日本帝国 宮城県 |
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死没 |
1944年7月6日(53歳没) 南洋諸島 サイパン島 |
所属組織 | 大日本帝国陸軍 |
軍歴 | 1912年 - 1944年 |
最終階級 | 陸軍中将 |
経歴
編集宮城県出身。陸軍中央幼年学校予科、同校本科を経て、1912年5月に陸軍士官学校(24期)を卒業。同年12月、陸軍騎兵少尉に任官し騎兵第27連隊付となる。1924年11月、陸軍大学校(36期)を卒業した。
陸軍兵器本廠付(軍事調査部)、騎兵第1連隊付、陸軍騎兵学校教官、騎兵監部員、騎兵第14連隊長、騎兵第8連隊長、騎兵第24連隊長、騎兵学校教官、留守第5師団参謀長などを歴任し、1939年8月、陸軍少将に昇進した。関東軍補充馬廠長、軍馬補充部本部長を歴任し、1942年12月、陸軍中将となった。
1944年にサイパン島に派遣され、第43師団長として守備隊を指揮した。1944年6月15日からサイパンの戦いが起こり、当初は善戦するも、陸海合わせて3万余の兵力は損耗し7月には3,000まで低下した。日本兵が次々に玉砕する中、司令官の斎藤もまた榴弾によって負傷し、7月6日に洞窟内で井桁敬治少将、海軍の南雲忠一中将と共に自決した。最期は切腹した後に、高級副官の鈴木二郎中佐が彼の頭を銃で撃ち抜いた、とされる。
栄典
編集家族親族
編集脚注
編集- ^ 『官報』第167号「叙任及辞令」1913年2月21日。
参考文献
編集- 『大日本帝国の興亡』ジョン・トーランド著