文亨泰
文 亨泰(ムン・ヒョンテ、문형태、1922年2月3日 - 2006年11月21日)は、大韓民国の軍人、国会議員。本貫は南平文氏(남평문씨)。号は雅石(아석)[1]。
文亨泰 문형태 | |
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生誕 |
1922年2月3日 日本統治下朝鮮全羅南道和順郡 |
死没 |
2006年11月21日(84歳没) 大韓民国ソウル特別市 |
所属組織 | 大日本帝国陸軍 大韓民国陸軍 |
軍歴 |
曹長(日本陸軍) 大将(韓国陸軍) |
墓所 | 国立大田顕忠院将軍第1墓域35号 |
経歴
編集1922年2月、全羅南道和順に生まれる。日本志願兵2期。大陸、ニューギニアを転戦して、終戦時は曹長。
1946年12月、警備士官学校第2期卒業、任少尉(軍番10173番)。
1950年12月、第11連隊長[2]。
1952年、陸軍参謀総長秘書室長[3]。
1962年、第1軍団長および第2軍団長。アメリカ陸軍指揮幕僚大学修了[7]
1967年4月、陸軍参謀次長[5]。
1968年、第2軍司令官。8月、合同参謀会議議長、任大将。
1970年8月、予備役編入。
1971年1月、民主共和党全羅南道和順・谷城地区党委員長。同年5月、第8代国会議員(全南和順・谷城区、民主共和党)当選。同年7月、国会財務委員会委員。
1973年3月、第9代国会議員(全南潭陽・谷城区、民主共和党)再選。同年12月、逓信部長官。
1975年9月、国会予算決算委員会委員。
1976年3月、国会財務委員会委員。
1978年1月、国家安保問題研究委員会委員。同年12月、第10代国会議員(全南潭陽・谷城・和順区、民主共和党)。
1984年6月13日、大統領府をはじめとする各種機関に民正党代表の丁来赫が投機で集めた財産が178億ウォンに達し、腐敗した政治家だという149ページにわたる投書が寄せられた。調査の結果、文書の作成者は当時同じ選挙区で競争関係にあった文亨泰だと明らかになった。結局丁は国家に財産を国に献納し、すべての公職を辞退すると宣言したが、文も公式謝罪文を発表して政界引退を宣言した[7]。
勲章
編集脚注
編集- ^ “대한민국헌정회”. www.rokps.or.kr. 2022年3月13日閲覧。
- ^ “<811>老兵이 걸어온 길-61-다시 임진강변에” (朝鮮語). 국방일보. (2008年2月9日) 2018年2月15日閲覧。
- ^ “<848>老兵이 걸어온 길-98-전 병과장을 장군으로” (朝鮮語). 국방일보. (2008年10月29日) 2018年2月15日閲覧。
- ^ 白善燁『若き将軍の朝鮮戦争』草思社〈草思社文庫〉、2013年、538頁。
- ^ a b c “2軍司令官文亨泰中将(2군사령관 문형태 중장)”. 中央日報. (1968年2月16日) 2016年8月16日閲覧。
- ^ “合同参謀議長 文亨泰大将(합참의장 문형태대장)”. 江南通信. (1968年8月6日) 2015年10月16日閲覧。
- ^ a b “문형태(文亨泰)”. 韓国民族文化大百科事典. 2023年8月14日閲覧。
- ^ “합삼의장 등 6백75명에 훈장”. 中央日報. (1969年10月1日) 2018年2月16日閲覧。
参考文献
編集軍職 | ||
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先代 金益烈 |
陸軍第1軍団軍団長 第15代:1962年 |
次代 李相喆 |
先代 丁來赫 |
大韓民国陸軍第2軍司令官 第10代:1968年 |
次代 韓信 |
先代 任忠植 |
大韓民国軍合同参謀本部議長 第11代:1968年 - 1970年 |
次代 沈興善 |
公職 | ||
先代 申尚澈 |
大韓民国逓信部長官 第24代:1973年 - 1974年 |
次代 張承台 |