捃拾教(くんじゅうきょう)とは、天台大師智顗が創始した天台教学における『涅槃経』の位置付けを指す。捃拾とは拾い集める、落ち穂拾いの意。日蓮もこの説を踏襲した。天台宗及び日蓮宗の各諸派や教団で、涅槃経は法華経よりも劣るとして、『涅槃経』をこう呼ぶ。

以下では、法華一乗の立場での解釈、またそれに対しての『涅槃経』優位における解釈、についてそれぞれ述べる。

法華一乗の立場での解釈

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『涅槃経』巻9如来性品(南本では菩薩品第16)に

法華の中に八千の声聞は記別を受くることを得て、大果実を成ずるが如き、秋収め冬蔵して更に所作なきが如し」

— 『涅槃経』巻9 如来性品

また天台の『法華玄義釈籤』巻二に

「法華に権を開するは已に大陣を破るが如く、余機彼に至るは残党難からざるが如し。故に法華を大収となし、涅槃を捃拾と為す。

— 天台の法華玄義釈籤巻二

また、日蓮は『報恩抄』において、次のように述べている。

また法華経に対する時は、是の経の出世は乃至法華の中の八千の声聞に記別を授くることを得て大菓実を成ずるが如く、秋収冬蔵して更に所作無きが如し等と云云。我れと涅槃経は法華経には劣るととける経文なり。かう経文は分明なれども、南北の大智の諸人の迷うて有りし経文なれば、末代の学者能く能く眼をとどむべし。

— 日蓮『報恩抄』

一仏乗を開き顕し、釈尊出世本懐を顕して、八千の声聞に記別(未来に成仏すると予言し約束する)した『法華経』に対して、『法華経』の後に説いた『涅槃経』は、法華経の利益に漏れた者を拾い集めたものであるから、『法華経』を秋に収める大収、『涅槃経』を冬に蔵す捃拾としている。したがって、『涅槃経』を捃拾遺嘱(くんじゅういぞく)とも呼ぶ。

『涅槃経』優位における解釈

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『涅槃経』巻9如来性品の経文の前文を省略せず述べると次のとおりである。

譬(たと)えば闇夜に諸の営作する所が一切、皆(みな)息(や)むも、もし未だ訖(おわ)らざる者は、要(かな)らず日月を待つが如し。大乗を学する者が契経[1]、一切の禅定を修すといえども、要らず大乗大涅槃日を待ち、如来秘密の教えを聞きて然(しか)して後、及(すなわち=そこで)当に菩提業を造り正法に安住すべし。猶(なお)し天雨の一切諸種を潤益し増長し、果実を成就して悉(ことごと)く飢饉を除き、多く豊楽を受けるが如し。 如来秘蔵無量の法雨も亦復(またまた)是(かく)の如し。悉くよく八種の病を除滅す。是の経の世に出づる、彼の果実の一切を利益し安楽にする所、多きが如し。能(よ)く衆生をして仏性を見せしむ、法華の中に八千の声聞の記別を受くることを得て大果実を成ずる如く、秋収め冬蔵(おさ)めて更に所作無きが如し。

— 『涅槃経』巻9 如来性品、前文

したがって、『涅槃経』を優位とする立場は、先の声聞記別の経文の解釈はまったく逆であるとする。『法華経』はたしかに声聞の記別を説いたが、その前に方便品において五千人の増上慢の比丘たちは「それまでの教えと違うのなら聞けない」として立ち去って[2]以降、救われていない。それらをもし『涅槃経』に譲ったとするならば、一切衆生の済度を確約する仏教の教え、また最高の教えであると位置付ける『法華経』に落ち度があることになり不完全な教えとなる、という主張がある。またこの『涅槃経』の経文は恣意的に前半部が省略されて多く典拠されており、これを省略せず素直に読めばまったく意味が逆の違ったものになるとする。

『涅槃経』優位説の立場では、この経文はあくまでも『涅槃経』の利益を説いたものであり、「秋収冬蔵」というのは、法華経で声聞衆が記別を受けて大果実を得たように、この『涅槃経』の教えを修学すれば、「更に所作なきが如し(あとは何もすることがないのと同じである)」と説いている。したがって『涅槃経』を修学しなければやり残したものがある、というのが解釈を加えない経文そのものの真の意味である、と反論している。

さらに、この秋収冬蔵の譬喩説は、同じ涅槃経でも南本と北本のみにしかない。法顕・六巻本には、

復、次に善男子、譬えば夜闇に閻浮提の人、一切の家業(けごう)は皆悉く休廃(くはい)し、日光出で已(おわ)って、其の諸の人民、家事(けじ)を修めることを得るが如し。是の如く、衆生、諸の契経及び諸の三昧を聞いて、猶夜闇に此の大乗の般泥洹経の微密の教えを聞くが如し。猶日出でて諸の正法を見るが如し。彼の田夫(でんぷ)の夏時の雨に遇うが如く、摩訶衍(大乗)経は無量の衆生を皆悉く受決(じゅけつ)して如来性を現ず。八千の声聞は法華経に於いて記別を受けることを得たり。唯、冬氷の一闡提を除く。

— 大般泥洹経(法顕本、六巻本)問菩薩品第十七

とあるように、法顕が翻訳した六巻本には、「法華経の中で八千の声聞が記別を得た」との記述はあるものの、曇無讖が翻訳した北本及び、六巻本と北本を校合訂正した南本には「大果実を収めて秋収め冬蔵めて更に所作なきが如し」との文言は見当たらない。したがって、六巻本においてもこの箇所は涅槃経の優位性を主張するための記述で、法華経での声聞記別は単にそのための引証でしかなかったことが窺える。

脚注

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  1. ^ かいきょう=一切の経典
  2. ^ これを五千起去=ごせんききょ、という。

関連項目

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