承察度
南山の初代琉球国王 島添大里城
承察度(しょうさっと、うふさと、? - 1398年?)は、古琉球の南山王国(山南王国)の初代国王(在位:1337年? - 1398年?)。
承察度 | |
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琉球国南山王 | |
在位 | 1337年? - 1398年? |
別号 | 温沙道 |
全名 | 承察度 |
居城 | 島添大里城 |
出生 |
不詳 島添大里城 |
死去 |
1398年 朝鮮漢城府? |
王朝 | 大里王統 |
概要
編集承察度は、大里(うふさと)の当て字と考えられている。北山王国の怕尼芝と同様、親子数代で同じ名を襲名したと考えられる。
承察度は『明実録』に記されている名前で、それによると1380年に初めて明へ進貢したという。その後、1383年・1384年・1385年と続けて進貢し、1385年には明の皇帝より南山王として鍍金の銀印を下賜されている。その後も、何度か明へ進貢した。
承察度は王位にあったが、実権は叔父の汪英紫に握られており、やがて汪英紫の世子の汪応祖に王位を簒奪されたとも、汪英紫・汪応祖に排斥され、朝鮮に亡命したとの説もある。
『李朝実録』によれば1394年9月9日、中山王察度の使者が、朝鮮に逃亡したという山南王子承察度の送還を求めている。また1398年2月16日には、南山王であった温沙道なる人物が、中山に国を滅ぼされ追われたとして、配下15人と共に晋陽へ亡命してきたという。朝鮮王李成桂はこれを哀れんで衣食を配給した。同年4月16日には宮廷で拝謁させ、5月21日にも招いたが、10月15日に温沙道は死去した。この温沙道も、大里の当て字と考えられている。
『明実録』の承察度と、『李朝実録』の承察度・温沙道がそれぞれ同一人物であるかは不明である。
近年、漢文學者いしゐのぞむは、福建漢字音で承察度が新里(しんざと)、汪英紫氏が「おんあんじすい」(大按司添)、汪應祖が「おんあんず」(大按司)、英祖が「あんず」(按司)であるとして、南山王統について新解釈を試みている[1]。
脚注
編集- ^ いしゐのぞむ「古琉球史を書き換へる」『純心人文研究』第28号、長崎純心大学、2022年2月、213-240頁、CRID 1050291768469112064、ISSN 13412027、国立国会図書館書誌ID:032010890。
令和四年二月二十日、二十七日、三月六日、八重山日報、談話連載「小チャイナと大世界」111,112,113
参考文献
編集- 徐恭生, 西里喜行, 上里賢一『中国・琉球交流史』ひるぎ社〈おきなわ文庫〉、1991年。国立国会図書館書誌ID:000002117198 。