戸谷松司
戸谷 松司(とたに まつじ、1921年(大正10年)6月30日[3] - 1999年(平成11年)6月26日[3])は、日本の政治家。
戸谷 松司 とたに まつじ | |
---|---|
生年月日 | 1921年6月30日 |
出生地 | 印南郡米田町(現・加古川市) |
没年月日 | 1999年6月26日(77歳没) |
死没地 | 神戸市垂水区神陵台[1][注 1] |
出身校 | 姫路高等学校(旧制)→京都帝国大学工学部 |
前職 |
建設省官僚 兵庫県副知事 |
配偶者 | あり(1950年~)[2] |
当選回数 | 3回 |
在任期間 | 1983年4月30日 - 1995年4月29日 |
経歴
編集印南郡米田町(現・加古川市)に6人きょうだいの3男として生まれる[4]。実家は宝殿駅前の料亭「荒熊」で、父は大阪相撲の元関脇だった[5]。姫路中学校(旧制)、姫路高等学校(旧制)を経て1944年(昭和19年)京都帝国大学工学部土木工学科卒業[2]。建設省に入り、九州電力嘱託、島根県土木砂防電気課長補佐、徳島県土木部河川課長、広島県土木建築部河川課長を歴任[6]。島根時代には竹下登の知遇を得た[7]。
1966年(昭和41年)、兵庫県庁に入り土木部河川部長、企画部長、土木部長を経て1976年(昭和51年)から1983年(昭和58年)まで兵庫県副知事を務めた[8]。兵庫県庁時代、知事の金井元彦と副知事の坂井時忠とが対立した際には坂井派として動き、のちに坂井が知事となると副知事に登用された。坂井の後任の知事に戸谷を、との動きがあった際には「私は貝原クンが適任だと思っている」とかわした[9]。
1983年(昭和58年)4月の姫路市長選挙に立候補し、三つ巴の選挙戦を制し当選。以後3選し1995年(平成7年)まで姫路市長を務めた。姫路市長在任中は姫路獨協大学を誘致したほか、日本城郭研究センターや姫路文学館の創設など、文化面の施設・制度などの充実に注力し、1989年には姫路百祭シロトピアを実施した。市長退任後の振り返りで最も思い出深い仕事として姫路獨協大学誘致と姫路城の世界遺産登録を挙げている[10]。
1995年、勲三等旭日中綬章受章[11]。姫路市立美術館館長。1997年、第21回井植文化賞(地域活動部門)受賞。1996年(平成8年)4月1日、姫路市名誉市民の称号を贈られた[12]。
若い頃は「ケンカ松」と呼ばれるほど喧嘩早く、また姫路市長としてはブレーンの小室豊允が「トップダウンそのもの」と評する手法であった[13]。一方で「役人には珍しく粋な遊びをする人」で芸者衆から「トーさん」と親しまれた[14]。
著編図書
編集- 「ロシア」から「ソ連」へ 戸谷松司編著 兵庫県ハバロフスク地方経済・文化使節団 1978年
- 未来の国ブラジル 戸谷松司, 神戸新聞社編集局 編集 神戸新聞出版センター 1979年2月
- 人と文化と都市 戸谷松司著 (兵庫新書, 6) 神戸新報社 1982年
- 二十一世紀への力強き前進(戸谷松司講演シリーズ) 新しい姫路を創る会 1986年11月
- 文化:その都市を育むもの 戸谷松司 著 (随筆・講演集 ; 3) 新しい姫路をつくる会 1988年
- 歴史文化都市への飛翔: 講演・対話集 戸谷松司 [述]編 竜田市太郎 1993年10月
脚注
編集注釈
編集- ^ 戸谷は兵庫県土木部長時代、県の外郭団体が造成した垂水区の住宅が売れ残ったため、責任上やむなく購入し、姫路市長退任後はその家で亡くなるまで過ごした(『豪の人、情の人』p.36)
出典
編集関係資料
編集- 小室豊允の《夢対談》 ”新世紀を語る” 瀬戸内海世界都市姫路の文化づくりを 戸谷松司(姫路市長) 『月刊神戸っ子』1992年1月 ページ付け無 神戸っ子アーカイブ
- 望月美佐の市長対談 歴史をしのび、自然に想う、文化の庭・好古園 戸谷松司さん(姫路市長) 『月刊神戸っ子』1992年5月 ページ付け無 神戸っ子アーカイブ
- 藤本統紀子のおしゃれ対談 世界に誇る「姫路城」 祝・世界遺産姫路城記念行事「キャスティバル’94」 戸谷松司さん(姫路市長) 『月刊神戸っ子』1994年4月 ページ付け無 神戸っ子アーカイブ
- 第21回井植文化賞~地域活動部門~ 姫路市の文化的街づくりに貢献 戸谷松司 『月刊神戸っ子』1997年8月 33ページ 神戸っ子アーカイブ
- 追悼 戸谷松司氏 姫路白陵会会長・前姫路市長 戸谷さんを悼む(空地啓一・姫路白陵会副会長)『白陵』(旧制姫路高等学校同窓会)20号(2000年2月)36ページ
- 豪の人、情の人: 人間戸谷松司 小室豊允 著 筒井書房 2001年