戸田忠文
戸田 忠文(とだ ただあや)は、下野足利藩の第7代藩主。宇都宮藩戸田家分家7代。諱の読みは「ただふみ」とも。
時代 | 江戸時代後期 |
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生誕 | 天保10年8月10日(1839年9月17日) |
死没 | 安政3年8月16日(1856年9月14日) |
改名 | 武治郎(幼名)、忠文 |
戒名 | 要玄院殿従五位下前大倉令一法宗参大居士 |
墓所 | 東京都新宿区牛込の松源寺 |
官位 | 従五位下、大炊頭 |
幕府 | 江戸幕府 |
藩 | 下野国足利藩主 |
氏族 | 戸田氏 |
父母 |
父:戸田忠温、母:ミ子 養父:戸田忠禄 |
兄弟 | 忠明、忠文、忠恕 |
妻 | 正室:戸田忠禄の娘 |
子 | 養子:忠行 |
天保10年(1839年)8月10日、宇都宮藩主・戸田忠温の四男として生まれる。弘化4年(1847年)に第6代藩主・戸田忠禄が死去したとき、忠禄の実子である忠行はまだ生まれていなかったため、婿養子となって家督を継いだ。嘉永6年(1853年)に従五位下・大炊頭に叙位・任官する。
しかし、若年で病弱なために藩政を執ることができなかったとされる。安政3年(1856年)8月16日に死去した。享年18。跡を養子とした忠行が継いだ。
系譜
編集父母
正室
- 戸田忠禄の娘
養子