戸塚ヨットスクール事件
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戸塚ヨットスクール事件(とつかヨットスクールじけん)は、1983年までに愛知県知多郡美浜町のスピリチュアル・民間療法施設「戸塚ヨットスクール」内で発生、発覚して社会問題に発展した一連の事件。
戸塚ヨットスクール事件 | |
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戸塚ヨットスクール校舎 | |
正式名称 | 戸塚ヨットスクール暴行死事件 |
場所 | 愛知県知多郡美浜町 |
日付 | 1979年 - 1982年 |
死亡者 | 5人 |
犯人 | 戸塚宏と他コーチ9人 |
戸塚宏により設立された戸塚ヨットスクールは、当初は「戸塚宏ジュニアヨットスクール」の名称で、ヨットの技術を教える教室だった。その後非行や情緒障害等に戸塚の指導は効果があるという真偽不明の噂がマスコミで報じられたことで、親元からスクールに預けられる生徒が増加し、指導内容をヨットの技術養成から、科学的根拠が存在しない非行や情緒障害の更生へと切り替えた。当初は教育界のカリスマとして マスコミは好意的に取り上げていたが、後に事件が発覚した。
2名の死亡事件が発生した直後に、同事件を題材とした「スパルタの海」がノンフィクション小説として中日新聞・東京新聞に掲載され、映画版(伊東四朗主演・西河克己監督)も制作された。
概要
編集1976年、戸塚宏によって設立された戸塚ヨットスクールは当初はオリンピックに通用するヨットマンの育成を目的としていた。戸塚は「普通の子供を対象にヨットでの教育を行っていたが、そこに不登校児が一人入校し、3回の訓練で学校に行くようになった。」と主張し、そのことを1977年、「徹子の部屋」出演時に話をしたところ一気に情緒障害児の入校希望が増えたという。
訓練生の死亡・傷害致死・行方不明といった事件が1980年代を通じてマスコミに取り上げられ、スクールの方針が教育的な体罰というより過酷な暴行だったことが司法判断によって確定した。
- 1979年から1982年にかけて、訓練中に訓練生の死亡・行方不明事件が複数発生。
- 1982年に起きた少年の死亡に関し、愛知県警察は当初は行き過ぎた体罰による事故と見ていたが、遺体から無数の打撲・内出血の痕跡・歯2本の損壊などが確認された。警察は捜査の時期を窺っていたが、1983年の5月にスクール前の道路を走っていた暴走族に対して一部のコーチが暴行して逮捕されたのをきっかけに、傷害致死の疑いでスクール内の捜査が始まった。その後、指導員が舵棒(ティラー)と呼ばれるヨットの艤装品(舵取りのための道具。一部では「角材」と報道された)で少年の全身を殴打し、その後ヨットでの訓練を続けていたことがわかり、組織ぐるみの犯行として6月には校長が、その後もコーチや元訓練生、そして支持者等の関係者が逮捕され、他の死亡事件についても起訴された。
訓練中に発生した死亡・行方不明事件
編集- 1979年 少年(当時13歳)が死亡
- Y事件
- 1980年11月4日、特別合宿生として同年10月31日から入校していた青年Y(当時21歳)が、早朝体操、穴掘り作業、海上訓練などの際にコーチらから暴行を受け、死亡した。戸塚及びコーチらは傷害致死罪で起訴された。
- あかつき号事件
- O事件
- 1982年12月12日、少年O(当時13歳)が特別合宿中に死亡した。入校一週間で早朝体操、自主トレーニングなどの際に暴行を受け、海上訓練の際には、戸塚とコーチらがヨットから何度も海に転落させた。少年は、12月9日頃からは食事もほとんど摂らなくなり、12日に死亡した。この間、一切治療は行われなかった。戸塚及びコーチらは、傷害致死罪で起訴された。
当時13歳だった少年の母親は週刊現代(2006年11月18日号)の実名インタビューで「出所後も焼香や謝罪は一切無かった。再犯が懸念される」という旨のコメントをしている。また、1982年にフェリーから海に飛び込んだとされて行方不明となっている少年の父親は同じく実名で「息子が本当に船から海に飛び込んだのかどうか未だにわかっていない。本当は突き落とされたのではないか」とコメントしている。
一連の事件は、日本において体罰の是非を問う討論等でたびたび参考として出され、また個人の教育論の展開(講演会や商業書籍の執筆など)のために、引き合いに出されている。
普通訓練生の死亡
編集上記のO事件で、1982年12月12日に死亡した少年Oは、所謂情緒障害児ではなく、「身体を鍛えたい」と自ら入校したが、入校からわずか8日後に死亡した。 少年Oの母親は、息子に入校を勧めたことを悔いた上で、「人の命をなんとも思わない暴力集団をとことん糾弾する」との決意を表明した[1][2]。
公判
編集戸塚及び元コーチ9人の公判
編集第一審
編集1992年7月27日、名古屋地方裁判所(小島裕史裁判長)は、Y事件、O事件についてそれぞれ傷害致死罪の成立を認め、あかつき号事件について監禁致死罪の成立を認めた。その上で、戸塚に懲役3年、執行猶予3年(検察側の求刑は懲役10年)、コーチらA~Iに懲役10ヶ月から2年6ヶ月、執行猶予2年から3年を言い渡した。
執行猶予となったのは、戸塚と、C以外のコーチ8人について起訴後の勾留期間が1100日を超えていること、Cについても起訴後の勾留期間が1000日近いことが量刑上考慮されたためである[3]。弁護側は、体罰が正当業務行為であると主張していたが、この主張は退けられた。なお、Fは、強制わいせつ罪についても起訴されていたが、これについては無罪となった。
この判決に対して、検察側と戸塚、A、B、C、D、Fの6人が双方で控訴した。
控訴審
編集1997年3月12日、名古屋高等裁判所(土川孝二裁判長)は「訓練は生徒達の人権を無視し、更生の名目で数々の暴力を振るった。もはや教育でも治療でもない」として一審判決を破棄し、戸塚に懲役6年、Aに懲役3年6月、Bに懲役2年6月、Cに懲役3年の実刑判決を下し、D、Fについて執行猶予判決を下した。
また、一審判決では、Y、Oの死因について外傷性ショックであるとの認定がなされなかったが、二審判決では、いずれも外傷性ショックが死因であると認定された[4]。
この判決に対して、戸塚、A、B、Cの4人は即日上告した。
上告審
編集2002年2月25日、最高裁判所(福田博裁判長)は二審判決を支持して、戸塚らの上告を棄却。これで戸塚の懲役6年とコーチ陣ら起訴された15人全員の有罪が確定判決となった。起訴から結審まで19年を要する長期裁判となった。
判決一覧
編集人物 | 地位 | Y事件 | あかつき号事件 | O事件 | 1審判決 | 2審判決 | 上告審 |
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戸塚宏 | 校長 | ○ | ○ | ○ | 懲役3年、執行猶予3年 | 懲役6年 | 上告棄却 |
A | コーチ | ○ | ○ | ○ | 懲役2年6月、執行猶予3年 | 懲役3年6月 | 上告棄却 |
B | コーチ | ○ | ○ | ○ | 懲役2年、執行猶予3年 | 懲役2年6月 | 上告棄却 |
C | コーチ | ○ | ○ | ○ | 懲役2年6月、執行猶予3年 | 懲役3年 | 上告棄却 |
D | コーチ | ○ | 懲役2年、執行猶予2年 | 懲役2年、執行猶予3年 | |||
E | コーチ | ○ | 懲役1年6月、執行猶予2年 | ||||
F | コーチ | ○ | ○ | 懲役2年、執行猶予2年 | 懲役2年6月、執行猶予4年 | ||
G | コーチ | ○ | 懲役1年6月、執行猶予2年 | ||||
H | コーチ | 懲役1年6月、執行猶予2年 | |||||
I | コーチ | 懲役10月、執行猶予2年 |
他のコーチの公判
編集- 1983年11月10日、名古屋地方裁判所(卯木誠裁判官)は、元支援者1人に対して懲役8月、執行猶予2年(求刑懲役1年)を言い渡した。
- 1983年12月19日、名古屋地方裁判所(早瀬正剛裁判官)は、元コーチ1人に対して懲役1年6月、執行猶予3年(求刑懲役1年6月)を言い渡した。元コーチは、控訴をせず、有罪判決が確定した。
- 1985年2月18日、名古屋地方裁判所(橋本享典裁判長)は、元コーチ1人に対して懲役2年、執行猶予2年(求刑懲役2年6月)を言い渡した[5]。
事件後
編集- 戸塚の出所
- その後の事件・事故
- 2006年10月9日、スクールから同月6日にいなくなった訓練生の25歳男性が、美浜町河和の沖合で水死体となって発見された[7]。警察は自殺と事故の両面で捜査を行っていると報道された。男性はうつ病で通院中であり、父親もスクールで共に寝起きしていたが、目を離した隙にいなくなり、スクールから3キロ離れた地点で水死体になって発見されている。同男性の遺体に目立った外傷はなかった[8][要文献特定詳細情報]。
- 2009年10月19日、訓練生の18歳女性が寮の屋上より飛び降りて死亡した。愛知県半田警察署は自殺とみて捜査している[9]。
- 2011年12月20日、訓練生の30歳男性が寮の3階より飛び降りて重傷を負った。半田警察署は自殺未遂とみて捜査している[10]。
- 2012年1月9日、訓練生の21歳男性が寮の3階より飛び降りて死亡した。半田警察署は自殺とみて捜査している[11]。
オウム真理教との関係
戸塚は、2020年にオウム真理教の後継団体であるひかりの輪代表の上祐史浩と二度にわたって対談を行ったほか、ヨットスクールと同じく、マスコミで大々的に取り上げられ、社会問題となった麻原彰晃やオウム真理教について肯定的な評価をしており、以下のような見解を示している[12]。
- マスコミは「麻原彰晃が若者を洗脳した」と主張しているが、実際には、麻原彰晃は若者を洗脳したのではなく、リベラル思想に洗脳されていた若者の洗脳を解いたのである。
- 麻原彰晃は修行をした過程で、真理を獲得している。
- 真理を教えることによって、リベラルに洗脳されている若者を洗脳から解放することができる。
また、 「理科系は天下の秀才であり、真理を理解することができる」とした一方、現在は麻原彰晃およびAlephに批判的な上祐氏(早稲田大学理工学部出身)については、「ただの偏差値秀才」「仲間を警察に売った裏切り者」「修行が足りない」と批判した[13]。
2020年2月21日、ニコニコ動画に投稿された日本文化チャンネル桜の動画内での我那覇真子との対談の中でも、上記と同様の見解を示し、「オウム真理教は仏教」「仏教は科学」だと主張した[14]。
元訓練生による証言
編集光文社が発行する写真週刊誌『FLASH』に掲載された元訓練生の証言によると、スクール内でコーチや支援者による生徒に対する以下のような性加害が行われており、その様子を見て戸塚宏は笑っていたという[15]。
- コーチがマッサージという名目で女子生徒を呼び出し、その女子生徒の服の中に手を入れる。
- 他の生徒が見ている前で、コーチと支持者が男子生徒2人の下半身を露出させて、笑いながら陰部を触り、その2人を追いかけ回す。
また、上記証言を行った元訓練生は被爆地の出身であったことから「原爆」というあだ名をつけられ、殴られながら「原爆頭やから人よりも丈夫やろう?」と言われたという[16]。
脚注
編集- ^ 朝日新聞 (1983-10-31). “思わず涙・・・木を取り直す 喪服姿の母親”. 朝日新聞.
- ^ “『戸塚ヨットスクール事件とは何だったのか』”. 小川里菜のあの事件を追いかけて. 2024年9月28日閲覧。
- ^ LEX/DB 27814801
- ^ 朝日新聞1997年3月13日朝刊29面『戸塚ヨットスクール事件 控訴審判決<要旨>』
- ^ 朝日新聞1985年2月18日夕刊11面『Aコーチまず有罪 傷害致死が成立 名古屋地裁判決』
- ^ 朝日新聞2006年4月30日朝刊名古屋版31面『戸塚ヨットスクール校長「体罰は教育」 出所、再び指導へ』
- ^ 読売新聞2006年11月6日夕刊15面『戸塚ヨットスクールの25歳訓練生水死体 先月9日に発見/愛知・美浜』
- ^ 2006年11月7日現在、新聞報道による
- ^ 朝日新聞2009年10月19日夕刊名古屋版7面『戸塚ヨットで入校生自殺か 18歳、寮から転落死』
- ^ 朝日新聞2011年12月20日夕刊名古屋版9面『訓練生転落か、男性が大けが 愛知「戸塚ヨットスクール」』
- ^ 朝日新聞2012年1月10日朝刊名古屋版31面『訓練生、飛び降り死亡 メモに「死にたい」 戸塚ヨットスクール』
- ^ ぐろチャンネル (2020-12-30), 戸塚先生の寺子屋(4) 『現在の日本教育と偏差値秀才』 2024年9月26日閲覧。
- ^ ぐろチャンネル (2020-12-30), 戸塚先生の寺子屋(4) 『現在の日本教育と偏差値秀才』 2024年9月26日閲覧。
- ^ 『【我那覇真子「おおきなわ」#108】戸塚宏~定義無き「体罰」批判、リベラル教育の偽善を斬る![桜R2/2/21 - ニコニコ動画]』2020年2月21日 。2024年9月26日閲覧。
- ^ 稲葉祐貴 (2024年9月23日). “「女子生徒の服の下に手を」「“原爆頭”と呼ばれ殴られた」戸塚ヨットスクール元生徒が語る“地獄の日々”“復活への憤り””. Smart FLASH/スマフラ[光文社週刊誌]. 2024年9月26日閲覧。
- ^ 稲葉祐貴 (2024年9月23日). “「女子生徒の服の下に手を」「“原爆頭”と呼ばれ殴られた」戸塚ヨットスクール元生徒が語る“地獄の日々”“復活への憤り””. Smart FLASH/スマフラ[光文社週刊誌]. 2024年9月26日閲覧。
関連項目
編集- Category:日本の学校で起きた事件
- 児童虐待事件の一覧
- 丹波ナチュラルスクール#暴力・虐待事件
- あけぼのばし自立研修センター事件
- 不動塾事件
- 風の子学園事件
- 神戸高塚高校校門圧死事件
- 指導死
- 恩寵園事件
- オウム真理教事件 - 同じくカルト集団による事件で、戸塚宏はオウム真理教を擁護している。