戦車第9連隊
戦車第9連隊(せんしゃだいきゅうれんたい)は、大日本帝国陸軍の戦車連隊。
戦車第9連隊 | |
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創設 | 1939年8月1日 |
廃止 | 1944年7月(玉砕) |
所属政体 | 大日本帝国 |
所属組織 | 大日本帝国陸軍 |
部隊編制単位 | 連隊 |
兵科 | 機甲兵 |
所在地 | 満州鉄嶺 |
上級単位 | 戦車第1師団 - 第43師団 |
最終位置 | サイパン島 |
戦歴 | 第二次世界大戦 |
概要
編集1939年(昭和14年)8月1日、戦車第3連隊と戦車第5連隊より抽出した戦車・将兵で、満州の鉄嶺で編成。編成当初は、2個中隊編成。
同時に、陸軍公主嶺学校教導戦車隊も戦車第4連隊の担当で編成された。
ノモンハン事件に第1戦車団が出動時には、既に、戦車第3連隊・戦車第4連隊から戦車第9連隊・公主嶺教導戦車隊への将兵の転属人事は発令されていたが、ソ連軍兵力を楽観視して短期出動であろうとの予想で、転属予定将兵も出動させた。結果は多くの人員・機材を失い、第1戦車団は戦線離脱を命ぜられるが、これは、損害が多い等の戦術的結果の撤退ではなく、戦車第9連隊・公主嶺教導戦車隊の新編成の期日があり、人員・機材を供出しなければならないので予定通りに帰還したというのが理由である。
但し出動の結果はと言うと、戦車第3連隊・戦車第4連隊の再建も必要であり、戦車第9連隊・公主嶺教導戦車隊の充足計画にも大きな影響が出たのは事実であった。
1944年のサイパン島をめぐる攻防の中、日米のマリアナ諸島に援軍として全部隊が派遣された。
連隊生き残りの下田四郎によれば、連隊長の五島正大佐は、単独の戦車連隊の夜襲は損害大であり効果がないと反対したが、上層部の命令どおりに戦車連隊は夜襲と同時に44台の戦車が米軍の十字砲火の中で失われて、連隊は僅か1時間弱で壊滅した。詳細はサイパン島の戦いを参照。
靖国神社遊就館と静岡若獅子神社に展示されている2台の九七式中戦車(チハ車)は、戦車第九連隊の下田四郎と関係者の努力で帰還した連隊戦車の生き残りであり[1][2]、この2台のみが日本国内で現存する九七式中戦車となっている。
人事
編集- 連隊長
参考文献
編集- 下田四郎『サイパン戦車戦 戦車第九連隊の玉砕』、光人社〈光人社NF文庫〉、2014年