慧遠 (隋)
慧遠(えおん、523年(正光4年) - 592年8月7日(開皇12年6月24日))は、中国の北周・隋代の地論宗の僧。東晋廬山の慧遠と区別して浄影寺の慧遠と呼ばれる。俗姓は李氏。敦煌郡出身の人である。
慧遠 | |
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523年 - 592年 | |
生地 | 建州高都県 |
宗派 | 地論宗南道派 |
寺院 | 浄影寺 |
師 | 法上 |
弟子 | 智徽 |
著作 | 『大乗義章』 |
生涯
編集13歳で出家し、四分律や経論を修学し、法上(495年 - 580年)に師事した。法上は、『十地経論』を研究する地論宗の南道派の中心人物で、北斉の僧統であった慧光の弟子で、師と同じく僧統となった。慧遠は、北周武帝の廃仏時に、ただ一人、武帝に対して正面きって直諫した。580年(大象2年)に仏教が復興すると、少林寺で講説した。
隋代になると、洛州の沙門都に任じられた。その後、開皇7年(587年)には、都の大興城に招致された。当初は大興善寺に入ったが、その喧騒を嫌い、新たに建立された浄影寺に移った。以後、遠は浄影寺で講説を行い、700余人という多数の僧徒が集まったという。主著は、『大乗義章』14巻である。自宗の見地からみた六朝仏教教理の総説的な内容であり、教理史上において重要視される。
開皇12年(592年)に勅が下り、翻経を管轄し、その文義を校定するよう求められたが、その年に住寺で没した。享年70。
伝記資料
編集- 『続高僧伝』巻8「隋京師浄影寺釈慧遠伝」