恭順皇貴妃
恭順皇貴妃(きょうじゅんこうきひ)は、清の嘉慶帝の側妃。姓は嘉慶帝の2番目の皇后孝和睿皇后と同じ鈕祜禄氏(ニオフル氏)。父は善慶。
恭順皇貴妃 | |
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恭順皇貴妃 鈕祜禄氏 | |
称号 | 如貴人→如嬪→如妃→皇考如貴妃→皇考如皇貴妃→皇祖如皇貴太妃→恭順皇貴妃(没後) |
出生 |
乾隆52年4月12日 (1787年5月28日) |
死去 |
咸豊10年6月14日 (1860年4月23日) |
埋葬 | 昌陵 |
配偶者 | 嘉慶帝 |
子女 |
皇八女(夭逝) 皇九女慧愍固倫公主(夭逝) 皇五子恵親王綿愉 |
父親 | 善慶 |
母親 |
富察氏(嫡母) 楊氏(生母) |
嘉慶6年(1801年) に如貴人として入宮する。
嘉慶9年(1804年) 、嘉慶帝は懐妊した如貴人を如嬪に封じた。
嘉慶10年(1805年) 、皇后鈕祜禄氏が皇四子瑞親王綿忻を産む数時間前に、皇八女を産んだ。
嘉慶15年(1810年)、嘉慶帝は懐妊した如嬪を如妃に封じた。
嘉慶16年(1811年)、如妃は皇九女慧愍固倫公主を産んだ。
嘉慶19年、皇五子恵親王綿愉を産んだ。
嘉慶25年(1820年)、嘉慶帝が崩御し、道光帝が即位すると、皇考如貴妃に尊封された。
道光26年(1846年)、如貴太妃は皇考如皇貴妃に尊封された。
道光26年(1846年)、道光帝が崩御し、咸豊帝が即位すると、如皇貴太妃は皇考如皇貴太妃に尊封された。
咸豊10年(1860年)、逝去し、『恭順皇貴妃』の諡号を贈られ、昌陵の妃園寢に葬された。
子女
編集伝記資料
編集- 『清史稿』