恐怖の館
恐怖の館(洪:Terror Háza)とは、ハンガリーの首都ブダペストのアンドラーシ通り60番地に位置する歴史博物館である。
恐怖の館 Terror Háza | |
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外観 | |
施設情報 | |
来館者数 | 一日あたり1000人以上 |
館長 | シュミッド・マーリア |
開館 | 2002年2月24日 |
所在地 | ハンガリーブダペスト |
位置 | 北緯47度30分25秒 東経19度03分55秒 / 北緯47.50694度 東経19.06528度 |
外部リンク | terrorhaza.hu |
プロジェクト:GLAM |
概要
編集矢十字党政権時代のファシズムやハンガリー人民共和国時代の共産主義等の20世紀のハンガリーに関する展示をしており、またそれらの時代の犠牲者や抑留者、詰問された者等の記念碑の役割も兼ねている。
建物
編集恐怖の館はオルバーン・ヴィクトル内閣の下で建設が決定した。2000年12月、中欧及び東欧の歴史と社会研究所は多数の血を流した20世紀のハンガリーの歴史を展示する博物館を建設するための建物を買い取った。
一年に亘る工事の下で、建物は内外ともに完全に刷新された。館内の展示ホールの最終的な見た目や外部正面は全て建築美術家であるアッティラ・F.コヴァーチュによって行われた。また、この建物の復元計画はシャーンドル・ヤーノシュとウーイサシ・カールマーンによって行われた。屋外の復元はある種のモニュメントであり、屋外の黒い装飾物(切り立った壁や黒い花崗岩も含む)はアンドラーシ通りに建つ他の建物に合わせるためのものである。
常設展示
編集ナチス・ドイツやソビエト連邦との関係、及びそれを受け入れたハンガリーについての展示がなされている。また、矢十字党やハンガリー国家保衛庁等についての展示もそれには含まれている。
多くの情報や展示はハンガリー語でなされているが、大きな情報板は英語でも書かれている。また、英語とドイツ語のオーディオガイドがある。
展示室に流れている音楽にはボナンザ・バンザイの音楽も含まれている。流れている音楽はオーケストラにミックスや音響効果をかけ作曲されたものが用いられている。
また、写真撮影及びビデオカメラの使用は館内では禁じられている。
かつての特別展示
編集- 2002年
- 1989年の汎ヨーロッパ・ピクニック
- つながり - ハンガリーにおける世界の秘密結社
- マートン・アーロン記念展示
- ジョージ・オーウェルとは誰か
- 本当の1984年
- ウクライナの女性
- 1944年のハンガリーの条約 - ホロコースト
- 人道主義と非人的 - ラウル・ワレンバーグ記念展示
- 必要性 - 子供のホロコースト
- 1945年ハンガリーの悲劇 – 悲痛は消えり!隷属の要求
- 1947年ハンガリーの悲劇
- "切断" – 鉄のカーテン、汎ヨーロッパ・ピクニック、体制変化
- 2010
- 2011
- 1944年から1945年のハンガリーの悲劇
反響
編集歴史家、評論家、政治学者の中には外部からの占領によって多くの犠牲者が生じたことを過剰に描き過ぎており、その一方でマジャール人自身がその体制の加担をしていたことを認めていないかのような示し方に疑問を持つ者もいる[2][3]。
評論家にはまたファシズムより共産主義の方に多くのスペースが割かれていることを嘆く者もいる。恐怖の館側の彼らに対する回答としては、サーラシ・フェレンツによるファシズムは数か月で終わったのに対し、共産主義は40年にわたったからだとしている。館長のシュミッドはこの討議を政治的思想が第一に出てきたことによる攻撃だと考えている[4]。また、博物館の擁護者は、展示の対象になっている人物、例えばバウエル・タマーシュの父であるバウエル・ミコローシュは自由民主同盟に対して厳しいと指摘している[5]。1990年代の自由民主同盟の当初の首長であるペテ・イヴァーンの親やハンガリー国家保衛庁等もその様に記録している[6]。
そのような反響があるにもかかわらず、恐怖の館は旅行客にとって有名な行き先の一つになっており、開業した2002年時点でインターネットでの多くの良い評価や一日1000人を超える集客が見られている。また、シュミッドは恐怖の館に関する政治的追求に関して次の様に答えている、「政治に関係ない歴史はあるだろうか」と[7]。
参考文献
編集- ^ “Czech Prime minister Petr Nečas: The years of totalitarianism were years of struggle for liberty”. Platform of European Memory and Conscience (14 October 2011). 14 October 2011閲覧。
- ^ Huber, Ilse. “Das Haus des Terrors in Budapest: Umstrittenes Museum über Ungarns Zeitgeschichte” (German). 2012年7月12日時点のオリジナルよりアーカイブ。2011年2月18日閲覧。
- ^ Marszovszky, Magdalena (2011). ““Die Märtyrer sind die Magyaren”. Der Holocaust in Ungarn aus Sicht des Hauses des Terrors in Budapest und die Ethnisierung der Erinnerung in Ungarn [“The Martyrs are the Magyars”. The Holocaust in Hungary from the Perspective of the House of Terror in Budapest and the Ethnification of Memory in Hungary]”. In Globisch, Claudia; Pufelska, Agnieszka; Weiß, Volker (German). Die Dynamik der europäischen Rechten. Geschichte, Kontinuitäten und Wandel [The Dynamics of the European Right. History, Continuity and Change]. Wiesbaden: VS Verlag für Sozialwissenschaften. pp. 55–74. ISBN 978-3-531-17191-3
- ^ “Socialists grab every occasion to cramp the House of Terror” (Romanian). February 18, 2011閲覧。
- ^ Tamas S. Kiss. “Museum facade ruling”. Museum Security Mailinglist Reports. 2011年7月27日時点のオリジナルよりアーカイブ。2011年2月18日閲覧。
- ^ Fodor Gyöngyvér (January 10, 2003). “Az újságíró asszony haragszik” (Romanian). February 18, 2011閲覧。
- ^ Fuller, Thomas (August 2, 2002). “Stark history / Some see a stunt : Memory becomes battleground in Budapest's House of Terror”. The New York Times. February 18, 2011閲覧。
関連項目
編集外部リンク
編集- 公式ウェブサイト
- Wallenberg: More Twists to the Tale, Mária Ember, They Wanted to Blame Us
- 恐怖の館 (terrorhazamuzeum) - Facebook