忍 (羌)
生涯
編集忍が無弋爰剣部落の豪(ごう:首領)となる。
秦の献公(在位:前384年 - 前362年)は穆公(在位:前621年 - 前621年)の行跡を再び行おうと、渭首に出兵して狄豲(てきかん)の戎を滅ぼした。忍の季父(末の叔父)である卬(ごう)はそうした秦の威を畏れ、自分の部衆を率いて南に向かい、賜支の河曲の西数千里に移住し、羌の諸族との関係を絶ち、二度と交通することはなかった。その後、その子孫は分かれて各々の種族を形成することとなる[1]。忍および弟の舞は湟中に留まり、ともに多くの妻を娶った。忍は9人の子供をもうけたため、その9人はのちに9種の部族を形成する。舞は17人の子供をもうけたため、その17人はのちに17種の部族を形成する。
忍が死去すると、子の研(けん)が立って豪となった。
脚注
編集- ^ ある者は氂牛(もうぎゅう)種となり、のちの越巂(えつすい)羌となる。ある者は白馬種となり、のちの広漢羌となる。ある者は参狼種となり、武都羌となる。
参考資料
編集- 『後漢書』西羌伝
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