徳川宗堯
徳川 宗堯(とくがわ むねたか、旧字体德川 宗堯)は、江戸時代中期の大名。常陸水戸藩4代藩主。官位は従三位・左近衛権中将、参議。
時代 | 江戸時代中期 |
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生誕 | 宝永2年7月11日(1705年8月29日) |
死没 | 享保15年4月7日(1730年5月23日) |
改名 | 松平軽麻呂→徳川鶴千代→宗尭 |
諡号 | 成公 |
戒名 | 俊德院殿光蓬社照譽大廣 |
墓所 | 瑞竜山 |
官位 | 従四位上左衛門督、正四位下左近衛権少将、従三位左近衛権中将、参議 |
幕府 | 江戸幕府 |
主君 | 徳川吉宗 |
藩 | 常陸水戸藩主 |
氏族 | 高松松平家→水戸徳川家 |
父母 |
父:松平頼豊、母:喜智(西御部屋) 養父:徳川綱條 |
兄弟 | 宗堯、松平頼治ほか |
妻 |
御簾中:美代姫 側室:礼武 |
子 |
松平頼順、宗翰 養子:定姫 |
生涯
編集宝永2年(1705年)7月11日、高松藩主・松平頼豊の嫡男として誕生。母は湯浅方淑の娘・喜智(西御部屋)。幼名は軽麻呂。正徳元年(1711年)11月、大伯父である水戸藩主・徳川綱條の養嗣子となり、鶴千代と改める。
享保元年(1716年)、将軍・徳川吉宗から偏諱を賜り宗堯と名乗る。少年時代から英邁で知られており、享保3年(1718年)に綱條が亡くなると家督を継いだ。自ら朝夕の食事を一汁三菜とし、倹約に努めて行き詰まっていた藩政を立て直そうとしたが、享保15年(1730年)4月7日に死去した。享年26(満24歳没)。
綱條の嫡子徳川吉孚の一人娘美代姫を御簾中とし、美代姫との間にもうけた次男宗翰が家督を継いだ。
有能で文化人としても優れていたため、徳川光圀の再来と讃えられた。著書に「成公文集」がある。
逸話
編集「水戸紀年」には、宗堯が死去する際、附家老の中山信昌が来て、鶴千代(宗翰)を御簾中・美代姫に抱き取らせ、「自分が再び来るまでは、何も食べさせてはならず、誰の手にも渡してはならない」と話したという逸話が載っている。
風聞によれば、高松藩より養子入りした宗堯は、生母喜智を讃岐国から呼び寄せ、小石川邸内に新御殿を建てて住まわせた。この新御殿に仕える元・高松藩士岡島弥兵衛の娘礼武が宗堯の目に留まり、側室となって長男・軽麻呂(頼順)を産んだ。嫡子かと浮き立っていたところ、翌年に美代姫が鶴千代(宗翰)を産んだので、こちらが嫡子となった。新御殿から鶴千代宛てに饅頭が贈られ、それを美代姫の部屋に来ていた宗堯が口に入れたところ、宗堯は腹痛を訴えて程なく急死したという[1]。
官歴
編集※日付=旧暦
系譜
編集脚注
編集- ^ 「水戸徳川家と幕末の烈公」p162 - 164