徳山一美
徳山 一美(とくやま かずみ、1938年 - 2007年8月16日)は、元高校野球指導者で、元倉吉北高等学校野球部監督。
来歴
編集岡山県真庭市蒜山生まれ。鳥取県立倉吉農業高等学校に入学し、野球部では捕手を務めた。高校卒業後に進学した駒澤大学では相撲部で活躍した。大学卒業後、東京都内の会社に就職。1965年、創立5年目の倉吉北高等学校に社会科教諭として赴任。1969年に野球部が創部され、監督に就任する[1]。
当時の鳥取県では、県立鳥取西高校・県立米子東高校の両校が強く、「少ない得点を守り抜いて勝つ」野球が主流だった。徳山は「2強と同じことをしていては勝てない」と考え、打力を前面に押し出したチーム作りを進めた[2]。1975年には春の選抜に初出場を果たす。鳥取県勢では、私学として初めて、また県中部の学校として初めての甲子園出場だった。
1978年には夏の選手権大会にも初出場を果たす。この時は1回戦で早稲田実業に3-2と競り勝ち、続く2回戦でも準優勝の高知商業に対して6-14で敗れたものの、一時は7点差を1点差まで詰め寄る。その後、1979年春(第51回選抜)・1980年春(第52回選抜)および夏(第62回選手権)、1981年春(第53回選抜)と甲子園出場を果たす。1979年春は投手矢田万寿男と谷川哲也らを中心とした強力打線で8強入り、1981年春には投手・坂本昇と代打陣の活躍で4強入りを果たした。しかし1981年夏から秋にかけて部内暴力報道が相次ぎ、その責任をとって監督を辞任した。
その後の野球部低迷を受けて1985年春に監督に復帰したが、期待されたほどの成績は上げられず、1990年に退任した。その後は倉吉北高職員を退職し、スポーツ用品店を経営していたが、2007年8月16日に呼吸不全により死去した。享年69。
全国大会での成績
編集- 監督通算成績 6勝6敗
年度 | 出場回数 | 成績 | 対戦校 | 備考 |
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1975年(第47回選抜) | 初出場 | 1回戦敗退 | 1-6 福井商(福井) | |
1978年(第60回選手権) | 初出場 | 2回戦敗退 | 3-2 早稲田実(東東京) 6-14 高知商(高知) |
福井英司主将が選手宣誓 |
1979年(第51回選抜) | 4年ぶり2回目 | ベスト8 | 1-0 静岡(静岡) 7-4 高松商(香川) 1-5 箕島(和歌山) |
高松商戦で谷川哲也が初回先頭打者本塁打 箕島戦で箕島が1試合10犠打の大会記録 |
1980年(第52回選抜) | 2年連続3回目 | 1回戦敗退 | 4-5 東海大三(長野) | 開幕試合。原田実が大会第1号本塁打 |
1980年(第62回選手権) | 2年ぶり2回目 | 1回戦敗退 | 1-2 習志野(千葉) 延長10回 | |
1981年(第53回選抜) | 3年連続4回目 | ベスト4 | 5-4 鳴門商(徳島) 3-2 中京商(岐阜) 2-1 高松商(香川) 0-4 PL学園(大阪) |
中京商戦で山根克士が選抜初の代打本塁打 |
エピソード
編集- 倉吉北高校のユニフォームデザインは徳山が考案したもので、今日まで変更されていない[3]。
- 1978年の第60回選手権大会での活躍を受け、倉吉北には関西方面からのいわゆる野球留学生が急増した。1981年春の4強進出チームでは、ベンチ入り15人のうち13人が関西の出身だった。県外生中心のチーム構成に風当たりは強かったが、徳山は当時をふり返って「我々にも未熟なところがあったが、野球にかける彼らの思いは純粋だった」と述懐している[4][2]。
- 息子の徳山高央も倉吉北高野球部監督で、2006年夏に甲子園に出場を果たしている。
関連項目
編集- 谷川哲也(第51回選抜高等学校野球大会に出場した時の主将・1番打者)
- 矢田万寿男(第51回選抜高等学校野球大会に出場した時の投手)
出典
編集- ^ 朝日新聞. “「鳥取の70回大会史 県中部から甲子園、倉吉北が悲願成就」2018年1月26日”. 2020年9月2日閲覧。
- ^ a b 1988年4月の朝日新聞「高校野球人国記・鳥取県」より
- ^ 日本海新聞. “第91回全国高校野球鳥取大会 - チームの横顔”. 2012年8月20日閲覧。
- ^ スポーツ伝説16・高校野球強豪校伝説(ベースボール・マガジン社)