御牧景則
御牧 景則(みまき かげのり)は、安土桃山時代の武将。明智光秀、後に豊臣秀吉の家臣。通称は勘兵衛。
時代 | 安土桃山時代 |
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生誕 | 生年不詳 |
死没 | 慶長5年(1600年) |
別名 | 勘兵衛(通称) |
主君 | 織田信長→明智光秀→豊臣秀吉→秀頼 |
氏族 | 御牧氏 |
父母 | 父:御牧益景 |
兄弟 | 景重、景則 |
子 | 信景(四手井清庵) |
略歴
編集御牧氏は山城国久世郡御牧村の豪族。御牧益景の次男として誕生し、一族の御牧摂津守が隠居すると、その名跡を継ぐ[1]。
天正元年(1573年)8月2日、細川藤孝・三淵藤英とともに淀城攻撃に参加した(第二次淀古城の戦い)[1]。
天正3年(1575年)から翌天正4年(1576年)にかけて大和国で活動していたが、のちに明智光秀の与力となった[1]。
天正10年(1582年)の山崎の戦いに従軍し、兄・景重は戦死するが、景則は豊臣秀吉に仕えて馬廻となり、文禄元年(1592年)の朝鮮出兵においては肥前国名護屋城の普請を行った他、寺沢広高とともに同城の裏門の警固を担当した。のちに山城国久世郡市田村に1,000石を与えられ、検地奉行として山城国の検地を行った[2]。