御友別
御友別(みともわけ[1]、御友別命)または吉備 御友別(きび の みともわけ[2])は、『日本書紀』等に伝わる古代日本の人物。吉備臣(吉備氏)の遠祖[1]。
系譜
編集『日本三代実録』元慶3年(879年)10月22日条では、吉備武彦命の第二男とする[1]。
また『新撰姓氏録』右京皇別 吉備臣条では、御友別を稚武彦命の孫とする[1]。
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記録
編集『日本書紀』応神天皇22年3月14日条では、天皇妃の兄媛(えひめ)を吉備に帰郷させたとあるが、同条ではこの兄媛を吉備臣祖の御友別の妹と記している[1]。
同書応神天皇22年9月6日条では、天皇が吉備の葉田葦守宮(岡山市足守付近か[1])に行幸した際、御友別は兄弟子孫を膳夫として奉仕させた。その功により、天皇は吉備国を割いて御友別子孫を次のように封じた[3]。
- 長子の稲速別 - 川島県に封ず。下道臣祖。川島県はのちの備中国浅口郡に比定。
- 中子の仲彦 - 上道県に封ず。上道臣祖・ 香屋臣祖。上道県はのちの備前国上道郡に比定。
- 弟彦 - 三野県に封ず。三野臣祖。三野県はのちの備前国御野郡に比定。
- 弟の鴨別 - 波区芸県に封ず。笠臣祖。波区芸県はのちの比定地未詳(笠岡市付近か)。
- 兄の浦凝別 - 苑県に封ず。苑臣祖。苑県はのちの備中国下道郡曾能郷か。
- 兄媛 - 織部を賜う。
そして、こうした縁で彼らの子孫は今も吉備国にいると記している[1]。
後裔
編集人物
編集文献に見える御友別の子孫として、『公卿補任』では吉備真備が九世孫と記されている[2]。
また『日本三代実録』元慶3年(879年)10月22日条によると、播磨の印南野臣の祖の人上(馬養人上/印南野人上)が御友別命十一世孫であったといい、子孫が「笠朝臣」の改賜姓を得ている[2]。
氏族
編集また『新撰姓氏録』では、次の氏族が後裔として記載されている。
- 右京皇別 吉備臣 - 稚武彦命孫の御友別命の後。
考証
編集『日本書紀』では上記のように御友別の時の吉備の分封を記すが、『古事記』では仁徳天皇と黒日売(吉備海部直の女)の伝承が見えることもあり、分封伝承の成立は7世紀まで下るとする説もある[2]。
脚注
編集参考文献
編集- 石井英雄「吉備御友別」『国史大辞典』吉川弘文館。
- 「御友別」『日本古代氏族人名辞典 普及版』吉川弘文館、2010年。ISBN 978-4642014588。