徐亨 (明)
生涯
編集徐永の子として生まれた[1]。1404年(永楽2年)、祖父の徐祥が死去すると、興安伯の爵位を嗣いだ。1410年(永楽8年)、永楽帝が10万人の民丁を動員して黄河の旧河道の復旧を命じると、徐亨は侍郎の蔣廷瓚とともにその浚渫工事を監督した[2]。1414年(永楽12年)、永楽帝の第二次漠北遠征に従い、中軍副将となった。トール川に達し、馬3000頭を鹵獲した。凱旋して開平を守り、軽騎を率いて興和・大同を往来して北辺を警備した。1423年(永楽21年)とその翌年の第四次・第五次漠北遠征では、徐亨は王通とともに右掖を率いて参戦した[3]。1426年(宣徳元年)、沐晟の下で右副将として交趾に遠征し、黎利を討った[4]が、軍功なく爵位を剥奪された。1435年(宣徳10年)、英宗が即位すると、徐亨は興安伯の爵位を回復した。1444年(正統9年)、ウリャンカイに遠征して、界嶺口・河北川に進出し、爵位を侯に進めた。陝西に駐屯し、北京に召還された。1460年(天順4年)2月、死去した[1]。諡は武襄といった。
子の徐賢が興安伯の爵位を嗣いだ。
脚注
編集参考文献
編集- 『明史』巻146 列伝第34