張 豊(ちょう ほう、? - 28年)は、中国代から後漢時代初期の武将新末後漢初の群雄の一人。

略歴

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姓名 張豊
時代 代 - 後漢時代
生没年 生年不詳 - 28年建武4年)
字・別号 〔不詳〕
本貫・出身地等 〔不詳〕
職官 涿郡太守〔後漢〕

→無上大将軍〔自称〕

爵位・号等 -
陣営・所属等 光武帝→〔独立勢力〕
家族・一族 〔不詳〕

出身階層等不明な点が多いが、当初は光武帝配下で涿郡太守の地位に在った。

しかし建武3年(27年)冬、張豊は、すでに漢に叛逆し燕王を自称していた漁陽郡彭寵に追随する形で、無上大将軍を自称して漢に叛逆した。

張豊は方術を好んだところ、ある道士が、五綵嚢に石を包んで張豊の肘に掛け、その石の中に玉璽があると張豊に説いた。張豊はこれを信じて叛逆したという。

建武4年(28年)5月、征虜将軍祭遵が、建義大将軍朱祜・建威大将軍耿弇・驍騎将軍劉喜と共に張豊を討伐した。その後まもなく、張豊の功曹である孟厷が、張豊を捕えて降伏してきた。処刑直前となった張豊はそれでも「肘の石には玉璽がある」と言い張るので、祭遵はこれを打ち破らせ、張豊はようやく道士に騙されたことを覚った。張豊は天を仰ぎ、「死に値することであり、恨むところなどない」と嘆じて刑を受けた。

参考文献

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  • 後漢書』本紀1上光武帝紀上
    • 同列伝10祭遵伝
    • 同列伝23朱浮伝

関連項目

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