張 特(ちょう とく、生没年不詳)は、中国三国時代の武将。子産幽州涿郡の人。

事績

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初めは牙門将軍の官にあったが、上司の諸葛誕からは無能と思われ、都に帰還させられるところだった。しかし嘉平4年(252年)、東興の戦いに敗戦を喫した諸葛誕は、毌丘倹と任地を交代することとなる[1]。張特は毌丘倹により留められ、また合肥新城の守備を任された。

嘉平5年(253年)、呉の諸葛恪に合肥新城を包囲され、陥落寸前にまで追い詰められる。そこで張特は呉軍にこう告げた。

「今、私はもう戦うつもりはありません。しかし魏の法では、城を攻撃されて百日が過ぎても救援がなければ、降伏しても家族が連坐しないことになっています[2]。我々が攻撃を受けてから既に九十日余り。この城には元々四千余人がいましたが、過半数が戦死者となりました。しかし城が陥落してもまだ降伏を望まぬ者が半数はいます。私は城に戻って彼らと語らった上、(城中の者の)善悪を別けて箇条書きにした名簿を明朝にお渡しします。しばらくの間、私の印綬を信義の証として(預けますので)持っていて下さい」

呉軍は張特の言葉を信じて攻撃を中止し、印綬も受け取らなかった。ところが張特はその隙に城壁を補強し、翌日には呉軍に対し「私にはただ戦闘による死があるだけだ!」と告げた。呉軍は激怒して攻撃を再開したが、ついに陥落させることはできず、撤退した。

張特はこの功績によって雑号将軍に昇進し、列侯に封じられ、また安豊太守に移った。

三国志演義

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羅貫中の小説『三国志演義』では第108回で登場。正史三国志』の記述に沿った形で、諸葛恪から合肥新城を守り抜く。

出典

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脚注

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  1. ^ 『三国志』魏書 毌丘倹伝
  2. ^ 「百日守れば罪を問わない」しきたりそのものは事実で、後年に呉の陶璜西晋楊稷を攻めた時、楊稷は百日経たずに降伏しようとしたが陶璜はこれを拒み、楊稷軍に不足した食料を与えてまで籠城を続けさせ、百日経ってからようやく降伏を受け入れている。房玄齢等『晋書』陶璜伝より。