弘光帝(こうこうてい)は、南明の初代皇帝。由崧(ゆうすう)。廟号安宗(あんそう)。日本では在位中の元号弘光を取って弘光帝と呼ぶのが一般的。

弘光帝 朱由崧
南明
初代皇帝
王朝 南明
在位期間 1644年6月19日 - 1645年6月15日
都城 南京
姓・諱 朱由崧
諡号 奉天遵道寛和静穆修文布武温恭仁孝簡皇帝
廟号 安宗
生年 万暦35年7月15日
1607年9月5日
没年 隆武2年4月9日
1646年5月23日)(39歳没)
朱常洵
姚氏
后妃 孝哲簡皇后(追号)
孝義皇后(追号)
陵墓 孟津県東山頭村
年号 弘光:1645年

生涯

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福王朱常洵万暦帝の三男)の長男。万暦45年(1617年)に徳昌郡王に封じられ、後に福王世子に立てられる。

崇禎14年(1641年)、李自成が洛陽を攻撃し、父の朱常洵が殺害されると懐慶府に逃れた。翌年、懐慶府が李自成によって落とされると淮安に逃れ、同年5月に年少の従父の潞王朱常淓中国語版(曾祖父の隆慶帝の孫で潞王朱翊鏐の子)を礼部侍郎の銭謙益史可法東林系の一派らが擁立し、逆に鳳陽総督の馬士英阮大鋮ら宦官派は福王を南京で擁立して対決した。いわゆる「賢」を立てるか「親」を立てるかの争いであったが、結局は「親」の福王が擁立され、初め監国を称し、まもなく皇帝を称した。

漢民族の期待を集め南明政権を成立させた弘光帝であるが、まず最初に行ったことが民間の婚姻を禁止し、続いて自らの皇妃選定することで民衆は失望した。その後も政治を顧みることなく舞踊に熱中し、政務は馬士英・阮大鋮に委任した。南京政権は内部抗争が絶えず、史可法らを更迭するなど混乱が絶えなかった。

弘光元年(1645年)、軍が南京を占領すると、蕪湖に逃れて黄得功中国語版の支援を要請したが、結局は総兵官の田雄・馬得功に裏切られて捕らえられ、北京に送られて、翌年に処刑された。

宗室

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  • 皇后
    • 貴妃金氏
    • 妃汪氏、妃陳氏、妃黄氏、妃郭氏
    • 嬪某氏(法名は真修)
  • 子女
    • 女子(夭折)
    • 女子(1641年行方不明)
  • 族子
    • 朱蓮璧(夭折)
先代
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崇禎帝(明として)
南明の皇帝
1644年 - 1645年
次代
隆武帝