弘中又一
日本の中等教育の教員
来歴
編集都濃郡湯野村(現在の周南市)出身[1]。勉強ができて、優秀だったため、独学だけでなく、山口市の私塾で漢文・英語・数学を学んだ[要出典]。
1890年(明治23年)同志社普通学校(現在の同志社大学)に入学[1]。在学中の1893年(明治26年)に17歳のタカと結婚[1]、同年、出身地の柳井小学校高等科の英語代用教員になる[1]。1894年同志社大学を卒業[1]。翌1895年(明治28年)に数学教師として、愛媛県の松山中学校(現在の愛媛県立松山東高等学校)に赴任する[1][2]。そこで当時英語教師を務めていた夏目漱石と出会い、1年間同僚として過ごす[1][2]。1896年(明治29年)に東予分校(愛媛県立西条高等学校)に転任したが[1]、11月に依願免職し[1]、徳島県の徳島県第二中学校教諭[1]。1900年(明治33年)に埼玉県第二尋常中学校(現在の埼玉県立熊谷高等学校)に赴任[1]。1919年(大正8年)同校を退職[1]、母校の同志社の中学校に赴任した[1]。晩年は京都に住んで、数学を研究した[要出典]。
夏目漱石の小説「坊っちゃん」の主人公のモデルとされる[1][2]。漱石は弘中の「ボンチ」という方言からヒントを得て「坊っちゃん」という小説名をつけたとも言われる[1]。
周南市に弘中又一記念公園がある[3]。