廬陵郡
概要
編集194年(興平元年)、孫策が豫章郡を分割して廬陵郡を立て、孫輔を廬陵太守に任じた[1]。廬陵郡は揚州に属した。
291年(元康元年)、揚州と荊州の10郡を合わせて江州が立てられると、廬陵郡は江州に属した[2]。晋の廬陵郡は西昌・高昌・石陽・巴丘・南野・東昌・遂興・吉陽・興平・陽豊の10県を管轄した[3]。
南朝宋のとき、廬陵郡は石陽・西昌・東昌・吉陽・巴丘・興平・陽豊・高昌・遂興の9県を管轄した[4]。
南朝斉のとき、廬陵郡は石陽・西昌・東昌・吉陽・巴丘・興平・高昌・陽豊・遂興の9県を管轄した[5]。
589年(開皇9年)、隋が南朝陳を滅ぼすと、廬陵郡は廃止されて、吉州に編入された。607年(大業3年)に州が廃止されて郡が置かれると、吉州は廬陵郡と改称された。廬陵郡は廬陵・泰和・安復・新淦の4県を管轄した[6]。
622年(武徳5年)、唐が林士弘を平定すると、廬陵郡は吉州と改められた。742年(天宝元年)、吉州は廬陵郡と改称された。758年(乾元元年)、廬陵郡は吉州と改称され、廬陵郡の呼称は姿を消した[7]。