庭田秀子
江戸時代の後光明天皇の典侍
庭田 秀子(にわた ひでこ、生年不詳 - 貞享2年4月2日(1685年5月4日))は、後光明天皇の典侍。礼成門院孝子内親王の母。父は右近衛中将従四位上庭田重秀だが、母は明かではない。
生涯
編集秀子は最初桂方と呼ばれていた。その後典侍に任じられた後は本姓から源典侍、源大典侍や、小一条局と呼ばれた。慶安3年(1650年)10月15日に女一宮が生まれる。後に孝子と名づけられる。後光明天皇はこの4年後崩御してしまう。
天皇の治世が短かったためか秀子についての記録も少ない。皇女孝子は天和4年(1683年)に内親王宣下を受けるが秀子はその2年後の貞享2年(1685年)4月2日に卒去する。栄雲院と諡された。墓所は京都府宮津市の智恩寺。
脚注
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