序破急 (企業)
株式会社序破急(じょはきゅう)は、広島県広島市中区で営業している映画興行会社。
本社・八丁座が入居している福屋八丁堀本店 タカノ橋公楽センタービル(旧・サロンシネマが入居、登記上本店)[1] | |
種類 | 株式会社 |
---|---|
本社所在地 |
日本 〒730-8548 広島県広島市中区胡町6番26号 福屋八丁堀本店8階[2][1] |
本店所在地 |
〒730-0051 広島県広島市中区大手町5丁目8番20号[1] |
設立 | 1981年(昭和56年)4月30日[2][1] |
業種 | サービス業 |
法人番号 | 6240001018243 |
事業内容 | 映画興行100%[1][補足 1] |
代表者 | 代表取締役社長 蔵本順子[2][1] |
資本金 | 500万円[2] |
売上高 | 3億3975万円(2013年4月期)[1] |
従業員数 | 9人[2] |
決算期 | 4月[1] |
主要株主 |
蔵本順子 - 80% 住岡正明 - 20%[1] |
関係する人物 |
蔵本登(先代社長) 住岡正明(取締役総支配人) |
外部リンク | 公式サイト |
概要
編集2016年11月時点で映画館のサロンシネマ・八丁座を運営。映画興行専業で事業を行っている[1][補足 1]。サロンシネマ・シネツインのみの時代は、アート系(ミニシアター系)を中心とした映画を流していたが[4]、八丁座開館以降は八丁座でロードショー作品も扱うようになっている[5][6]。
序破急系の劇場では、小冊子『End Mark』を発行・配布している。
サロンシネマ&八丁座としてA5両面カラー二つ折りの上映時刻表「tomorrow is another day」を月単位で発行している。
歴史
編集1954年(昭和29年)、現社長の父蔵本登が旧・サロンシネマの有る地で映画興行を開始[7]。当時は、日活・大映・東映の封切館、洋画のスバル座、名画座の5映画館が営業していた[7]。1965年(昭和40年)12月には『タカノ橋公楽センタービル』が建てられた[8]。複数の映画館と飲食店が入居する現在のシネコンのような建物だった[4]。
映画残業の斜陽化で1972年(昭和47年)1月に『鷹野橋大映』閉館。当時、『タカノ橋公楽センタービル』の代表取締役をしていた蔵本登が一念発起[9][補足 2]。
場内は絨毯敷き[9]、鷹野橋大映時代の250席を100席に減らし[9]、当時45cmの座席幅が標準的だったのを60cmに拡大[10]。スタジアム形式の座席を採用[9]。各席にテーブル・押しボタンを追加[9]。押しボタンは痴漢対策および[10][9]、飲み物の注文に利用できた[9]。脱ポルノ映画・名作映画路線を取った[10]。それらの試みは改装当時画期的な物で同業他社も注目[9]、スタジアム形式の座席は後年シネコンに採用された[9]。その後、1974年(昭和49年)に姉妹館『シネマパーラー』をオープンさせた[9][11]。
その後、経営は低迷し、昭和30年代に5館所有していた映画館も、切り売りなどして『タカノ橋公楽センタービル』を残すのみになり[12]、1980年(昭和55年)には閉館かポルノ映画転換を考えるまでになっていた[13]。その頃、東京でサラリーマンをしていた、現・総支配人の住岡正明が閉館の噂を確認すると、東京に帰り東京の映画館を視察してリポートを提出[14]。半ば強引な形で入社した[15]。
住岡正明は、東京で行われていたフィルムマラソンを広島でも行うことを提案[4]。当時の社長から反対されつつ、自腹でフイルム代を出す条件で開催[4]。21時30分から4本から5本の映画を9時間余りかけて上映する[16]、1981年(昭和56年)3月から始まったフイルムマラソンは[17]、多くの客が詰めかけ[4]、1990年(平成2年)8月に100回[17]、1996年(平成8年)に300回[16]、2014年(平成26年)8月30日時点で579回を数える[18]名物企画になった[4]。
また、同時期に東京に嫁いでいた娘の、現社長蔵本順子に家業を継ぐことを打診[13]。蔵本順子は、『ポルノに転換したら名画座に戻れなくなる』とポルノ転換に反対し父・蔵本登は受け入れ[19]、蔵本順子は広島に帰り、1981年(昭和56年)に、当時サロンシネマを運営していた公楽産業の社長に就任した[20][補足 3]。最初に、映写技師が倒れても対応できるように、映写技師の資格を取得した[21]。その後、受付からトイレ掃除まで行った[21]。
1984年(昭和59年)まで名画の供給が続いたが、供給が途絶えたことで名画座としての興行を断念[21]。同年夏以降はアート系ミニシアターとして営業を続けた[21]。
その後、1986年(昭和61年)12月より、ウィズワンダーランド6階の多目的ホールを借りて、非常設館『テアトル・ウィズ』の興行を開始[22][23][24]。1989年(平成元年)にヘラルド・エース・テレビ新広島とタイアップして『シネツイン』を設置[25][22]。1994年(平成6年)に、『(旧)サロン・シネマ2』を設置[26]。2005年(平成17年)に、家主の呼びかけで『宝塚4』の興行を引き継ぎ[27]、『シネツイン2』を設置[28]。2010年(平成22年)に『八丁座』を設置[29]。2014年(平成26年)に現・『サロンシネマ』をオープンさせた[30]。
序破急が運営するサロンシネマ以外の映画館についても、座席や内装、音響にこだわった劇場づくりをしている[31]。それらの理由から、東京からも劇場の見学者が来る[32]。
蔵本登は、その後不動産関係の会社を運営し[33]、1999年(平成11年)1月に死去[34]。蔵本順子は、1989年(平成元年)にシネツインの社長に就任[20]。2009年(平成21年)には、現運営会社の序破急社長に就任した[20]。2011年7月からは、地元映画評論家の花本マサミ死去に伴い、『蔵本順子のシネマトーク』のパーソナリティに就任[35]。女性として初めて広島県興行生活衛生同業組合の理事長にも就任している[36][20]。住岡正明は、サロンシネマ・シネツイン・八丁座の総支配人になっている[37]。
2009年(平成21年)に週刊文春が行った『おすすめのシネコンランキング』で4位に選ばれ[32]、森田芳光監督の『武士の家計簿』(2010年)はシネコン系に混じり売り上げ上位を確保した[38]。八丁座開館以降は、高齢者の需要を獲得し営業利益を確保している[39]。また、社員教育に力を入れ、年間340日[32]、フイルムチェックや上映する映画を決めるための試写会を行い[32]、上映後にはディスカッションを行っている[32]。
2016年(平成28年)11月には社長の蔵本順子が藍綬褒章(公益活動)を受章し[40]、また中国新聞主催の中国文化賞を受賞した[36]。
運営映画館
編集営業中
編集外観 | 劇場名 | 開館年月日 | シアター数 | 席数 | デジタル対応 フイルム対応 |
前身の映画館 (転換直前の館のみ) |
備考 |
---|---|---|---|---|---|---|---|
サロンシネマ | 2014年9月20日[30] | 2[41] | 125席(サロンシネマ1) 90席(サロンシネマ2)[41] |
○ / ○ × / × |
広島東映 広島ルーブル[42]。 |
広島東映プラザビル8階に入居 | |
八丁座 | 2010年11月26日[29] | 2[43] | 170席(八丁座 壱) 70席(八丁座 弐)[41][43] |
○(3D) / ○ ○ / ○[43] |
松竹東洋座 広島名画座[29] |
福屋八丁堀本店8階に入居 同じ建物内に『映画図書館』を併設 |
閉館済
編集外観 | 劇場名 | 開館年月日 | 閉館年月日 | シアター数 | 席数 | 前身の映画館 (転換直前の館のみ) |
備考 |
---|---|---|---|---|---|---|---|
(旧)サロンシネマ | 1972年3月1日(サロンシネマ1)[10] 1994年4月29日(サロンシネマ2)[44] |
2014年8月31日[30] | 2[43][45] | 100席(サロンシネマ1)[43] 99席(サロンシネマ2)[45] |
タカノ橋大映(サロンシネマ1) タカノ橋日劇(サロンシネマ2)[4] |
以前の運営会社は『蔵本興行』(-1984年頃)[46][47][48][49]→『公楽産業有限会社』(1985-2007年頃)[50][51][52][53][54][55] 『タカノ橋公楽センタービル』3階に入居 本社も同じビル内に入居していた | |
シネマパーラー | 1974年[11] | 1987年2月16日[56] | 1[9] | 66席[9] | ビリアード場[9] | 以前の運営会社は『蔵本興行』(-1984年頃)[46][47][48][49]→『三和興行』(1985年頃)[50] 『タカノ橋公楽センタービル』に入居 サロンシネマの姉妹館[9] | |
テアトル・ウィズ[51][52][57] | 1986年12月[23] | 不明[補足 4] | 1[51][52][57] | 80席[51][52][57] | ウィズワンダーランドの多目的ホールを借りて、非常設館として設置[22] 運営当初は『大劇』が運営[補足 5]。 『映画館名簿』は1990年版から1997年版まで掲載頃[60][57] | ||
シネツイン2 | 2005年[28] | 2013年12月27日[28] | 1[61] | 148席[61] | 広島宝塚4[28] | 以前の運営会社は『シネツイン』(2005-2007年頃)[54][55] 『新天地レジャービル』5階に入居 『シネツイン新天地』とも呼ばれていた。 | |
シネツイン | 1989年8月25日[25] | 2016年10月31日[62] | 1[41][45] | 90席[41][45] | 中央名画劇場[63] | ヘラルド・エース・テレビ新広島とタイアップして設置[22] 以前の運営会社は『株式会社シネツイン』(1989-2008年頃)[51][52][53][64]→『シネツイン』(2004-2007年頃)[65][54][55] 『APEX PART-2』地下1階に入居 1列目の座席を外し舞台を用意すればテレビスタジオとしても利用可[66] 『シネツイン2』が営業していた頃は、『シネツイン1』や『シネツイン本通り』と呼ばれていた。 |
脚注
編集補足
編集- ^ a b 序破急が発行する小冊子『End Mark』2012年9月号にも、興行収入のみで、不動産収入は得ていなく、劇場は家賃を払っていると明記している[3]。
- ^ その頃の蔵本登の肩書きはタカノ橋公楽センタービル代表取締役だった[9]。
- ^ もっとも、1975年に公楽産業に入社している[20]。
- ^ 『映画館名簿』には1997年度まで掲載[57]。『レジャー広島』も1997年9月号まで掲載[58]。『End Mark』には、1994年3月号までの掲載になっている[59]
- ^ 『大劇』の社長と、『三和興行』の社長は同一の名前の人物[23][50]
出典
編集- ^ a b c d e f g h i j 『東商信用録 中国版 2014年度版』801ページ
- ^ a b c d e 会社概要 - 序破急
- ^ 『End Mark 2012年9月号』 - 13ページ
- ^ a b c d e f g サロンシネマ1・2 - 港町キネマ通り
- ^ 『wendy広島 2012年3月号』 - 10ページ
- ^ 教室詳細 - ひろしまジン大学
- ^ a b 『名画座時代 消えた映画館を探して』 - 187ページ
- ^ 『ヒロシママガジン』 195ページ
- ^ a b c d e f g h i j k l m n o 『シネマッド 2011年6月号』 - 8,9ページ
- ^ a b c d 『当方 脱ポルノ 名作映画で斜陽対策 広島の映画館 明るい館内 痴漢ブザー』 - 中国新聞 1972年3月26日 15ページ
- ^ a b 『ヒロシママガジン』 197ページ
- ^ 『名画座時代 消えた映画館を探して』 - 189ページ
- ^ a b 『名画座時代 消えた映画館を探して』 - 196ページ
- ^ 『名画座時代 消えた映画館を探して』 - 196,197ページ
- ^ 『名画座時代 消えた映画館を探して』 - 197ページ
- ^ a b 『限られた時間 他人と共有 300回迎えたフイルムマラソン 広島の意地を託す』 - 中国新聞 1996年8月23日 19ページ
- ^ a b 『フイルムマラソン 今月で100回 名画の面白さ深夜に再発見 広島のサロンシネマ』 - 中国新聞 1990年8月8日 6ページ
- ^ フィルムマラソン|広島の映画館サロンシネマ、シネツイン、八丁座の広島地場劇場運営会社【序破急】
- ^ 『日本映画は、いま』 - 34,35ページ
- ^ a b c d e 『Grandeひろしま 2014年夏号』 - 96ページ
- ^ a b c d 『日本映画は、いま』 - 35ページ
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- ^ a b c 『映画手帖 1986年12月号』 - 12ページ
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- ^ 『いま映画館は快適空間 広島市内 改装オープン相次ぐ』 - 中国新聞 1994年4月27日夕刊 6ページ
- ^ 『End Mark 2004年6月号』 - 3ページ
- ^ a b c d 『新天地で60年 銀幕よさらば 前身を引き継ぎ70年「シネツイン」閉館 ファンが別れ惜しむ』 - 中国新聞 2013年12月28日 23ページ
- ^ a b c 『中心街 新たな「映画の灯」 広島に「八丁座」オープン』 - 中国新聞 2010年11月26日夕刊 1ページ
- ^ a b c 『街の銀幕 最後の上映 サロンシネマ(広島)シネフク大黒座(福山)閉館』 - 中国新聞 2014年9月1日 24ページ
- ^ 「休館相次ぐミニシアターは、本当に存亡の危機なのか? 広島・序破急が貫く独自路線」『日経トレンディ』、日経BP、2011年2月10日、2015年2月11日閲覧。
- ^ a b c d e 「休館相次ぐミニシアターは、本当に存亡の危機なのか? 東京のミニシアターに学ぶことは、何ひとつない」『日経トレンディ』、日経BP、2011年2月10日、2015年2月11日閲覧。
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- ^ a b 中国文化賞 受賞者の業績と横顔 広島中心部で2映画館営む蔵本順子氏 中国新聞 2016年11月3日 朝刊 15ページ
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- ^ HiNT!進化挑戦のヒケツ - みずま工房
- ^ 『中小映画館 個性で勝負』 - 日本経済新聞 2012年10月8日 11ページ
- ^ 秋の褒章 17人・1団体、県内から受章 毎日新聞 2016年11月2日
- ^ a b c d e 劇場案内 - 序破急
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- ^ a b 『映画館名簿 2010年版』 186ページ
- ^ シネツイン閉館のお知らせです - 序破急
- ^ シネツイン 本通り&新天地 - 港町キネマ通り
- ^ 『映画館名簿 2003年版』 151ページ
- ^ 『映画館名簿 2004年版』 154ページ
- ^ 『豪華映画館 広島市本通の「シネツイン」オープン 映像文化の新拠点に TVスタジオ兼ねる』 - 中国新聞 1989年8月31日夕刊 4ページ
参考文献
編集- 『名画座時代―消えた映画館を探して』(岩波書店、阿奈井文彦) ISBN 978-4000022644
- 『ヒロシママガジン―「映画手帖」「月刊レジャー広島」日本最長寿タウン誌の軌跡』(ザメディアジョン、久村敬夫) ISBN 978-4902024081
- 『日本映画は、いま―スクリーンの裏側からの証言』(TBSブリタニカ、佐野眞一) ISBN 978-4484962016
- 『映画年鑑 別冊 映画館名簿』(時事映画通信社)、バックナンバー
- 『映画手帖』および『月間レジャー広島』(広島映画手帖社)、バックナンバー
- 『End Mark』(「株式会社序破急」と、その前身の会社)、バックナンバー
- 『中国新聞』(中国新聞社)、バックナンバー
外部リンク
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