広田彦麿

幕末・明治期の神職、歌人

広田 彦麿(ひろた ひこまろ、文政13年1月11日1830年2月4日〉 - 明治29年〈1896年8月1日)は、幕末・明治期の神職歌人。変名は筑紫速雄

生涯

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文政13年(1830年)1月11日、筑後国に生まれる[1][注釈 1]。父は広田八幡宮祠官の広田甲斐守速見[2]。幼少より和歌・武術に通じ[2]、国学者西原晁樹の門人となる[1][4]

嘉永年間に上京し、安政4年(1857年)に再び上京して諸藩の志士と交遊を深め、有栖川宮熾仁親王に親近した[2]文久3年(1863年)、遠島となっていた西郷隆盛の救出を計画して天草から出航したが、波が荒く断念した[2][注釈 2]。その後幕吏に追われて甲斐国都留郡上吉田村へ潜伏し、同地で御師の子弟に勤王思想を鼓吹した[3]慶応3年(1867年)2月18日、幕府への通款を疑われた淵上郁太郎が暗殺されたが、広田彦麿をその実行者とする説がある[5]

慶応4年(1868年)正月に上京、有栖川宮の命により3月14日に駿府へ出立[2]。駿府では東北平定祈願のための伊勢神宮熱田神宮代拝の副使となる[1][2]。その後、諸藩志士により編成された蒼竜隊の隊長となり、江戸市中の警衛にあたった[2]。明治4年(1871年)、参議広沢真臣暗殺の嫌疑をかけられ投獄されたが、明治9年(1876年)無罪となった[1][4]

明治21年(1888年)7月、『明治慷慨詩歌集前編』を出版する[1]。明治29年(1896年)8月1日、67歳没[1][4]

脚注

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注釈

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  1. ^ 『明治維新人名辞典』『幕末維新大人名事典』は文政11年(1828年)生とする[2][3]。生地は筑後国下妻郡芳司村。明治期に山門郡文広村となり、現福岡県みやま市瀬高町文廣。
  2. ^ 明治維新人名辞典は配流先を奄美大島とするが、実際には沖永良部島

出典

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参考資料

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  • 市居浩一「渕上郁太郎暗殺始末」『共同研究新選組』新人物往来社、1973年、205-221頁。 
  • 日本歴史学会 編「広田彦麿」『明治維新人名辞典』吉川弘文館、1981年、832-833頁。 
  • 萩原頼平、森繁夫、青柳武明、岡茂政 著「広田彦麿論」、宮地正人 編『明治維新の人物像』吉川弘文館〈幕末維新論集12〉、2000年、151-158頁。 
  • 今川徳三 著「広田彦麿」、安岡昭男 編『幕末維新大人名事典』 下、新人物往来社、2010年、361-362頁。 
  • 広田彦麿」『デジタル版 日本人名大辞典+Plus』講談社、2015年https://kotobank.jp/word/%E5%BA%83%E7%94%B0%E5%BD%A6%E9%BA%BF-11043802020年6月13日閲覧