広海 二三郎(廣海、ひろうみ にさぶろう[注釈 1]1854年12月22日安政元年11月3日[1][2])- 1929年昭和4年)1月29日[3])は、明治時代の政治家実業家銀行家貴族院多額納税者議員。5代二三郎[4]北前船主。

広海二三郎

経歴

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広海常信(4代二三郎[4])の長男として[1][5]加賀国江沼郡瀬越村石川県江沼郡大聖寺町瀬越を経て、加賀市大聖寺瀬越町)に生まれる[2]。生家は加賀大聖寺藩の海運界の旧家[2]。家訓により16歳から5年間手船に乗って船乗りと商売の基礎を学んだ[4]1887年(明治20年)1月、常信の死亡により家督を相続する[2]

1884年(明治17年)大阪に進出し、広海商店と屋号を掲げ[1][注釈 2]、船舶業および海産物業を経営し[2]、1889年(明治22年)には北海道小樽に「広海倉庫」を設立した[6]。 1896年(明治29年)には日本海上保険を設立し社長を務める一方[7]鉱業にも参入した[8]大分県大野郡長谷川村の九折鉱業所[注釈 3]玖珠郡飯田村の九重山鉱業所、鹿児島県大島郡硫黄島鉱業所ほかを経営し、天然硫黄王と称された[9][2]。ほか、三十四銀行大日本紡績監査役、共同火災保険各取締役など重役を歴任した[1]

1904年(明治37年)石川県多額納税者として貴族院議員に互選され、同年9月29日[10] から1911年(明治44年)9月28日まで在任した[3]。その後、北海道拓殖銀行創立委員および農工商高等会議員[3][11]、1919年認可の大日本火災海上再保険の取締役を務めた[5][12][13]

所有船

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船舶業は大阪の江之子島を本社としていた[14]。1880~90年代に所有していた汽船15隻は全てイギリス製で代表的なものは次のとおり[15][注釈 4]

  • 汽船 - 京都丸、江戸丸、千代丸、千島丸
  • 帆船 - 千歳丸、広福丸、広徳丸、九十九丸、八重丸

栄典

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親族

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  • 弟:大家七平(貴族院多額納税者議員)[5][18]
  • 長男:広海四郎(広海商事副社長)[19]
  • 長女:ツユ(滋賀県多額納税者・小泉新兵衛に嫁ぐ)[1][20]
  • 甥:広海幾太郎(豊田商事取締役)[19]

脚注

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注釈
  1. ^ 『北陸人物名鑑 大正11年版』では仁三郎
  2. ^ のち広海商事と改称した。
  3. ^ のちの三菱豊栄鉱山。
  4. ^ このうち千島丸はイギリスのウィリアム・アンド・グレイ社英語版の造船で1892年に進水し、イギリスのスミス・アイモシ社、ノルウェイA. F. クラヴネス社英語版が運用したのち1903年に広海に売却された[16][17]。1938年にフジマヨシオに売却され、1945年8月18日に米軍機の空爆により沈没した。
出典

参考文献

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関連項目

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