広橋局
概要
編集広橋局は、慶長14年(1609年)の猪熊事件によって中院局、水無瀬局、唐橋局と共に伊豆の新島に流された。その後、元和9年(1623年)9月に勅免され帰京したという。
なお、元和6年(1620年)1月10日付けのジョアン・ロドリゲスによる書簡には、広橋局や彼女と共に伊豆に流された女官と思しき女達が、同じく伊豆に流されていたジュリアおたあと接触していたと見られる記述が残されている。その書簡によれば、広橋局はマグダレナ、唐橋局はマリアの洗礼名を授かっていたとされる。内容は以下の通りである。
「ジュリアという高麗生まれの女性を、キリスト教への信仰を表明したことが原因で新島へ追放してから8.9年が経ったが、そこにはそれ以前に、内裏の宮殿にいた異教徒の女性数名が、他の原因で追放されていた。ジュリアはそれらの女性のうち、特に2人と特に親しくなり、彼女らにキリスト教について話し、1人(広橋局)にマグダレナ、もう1人(唐橋局)にマリアという洗礼名をつけた。それでその2人はキリシタンとして振舞い、祈りを捧げるようになった。その後、ジュリアは神津島へ、マグダレナとマリアは八丈島へ送られることになった。その後、マグダレナは八丈島の支配者(代官奥山弥九郎か)に言い寄られたが、それを断り続け、それに怒った支配者は、まずマグダレナの鼻と耳を、それから首を従者に斬らせた」(1620年1月10日付けのジョアン・ロドリゲスによる書簡)
八丈島にある三根供養橋から三原林道に進んだ先には、「唐橋」の地名が2箇所、それに関連する地名が数箇所、住居跡と思しき平地がある。火葬場の付近の谷にも「唐橋」「唐橋沢」の地名があり、唐橋局の埋葬地であるとする説がある[1]。ただし、唐橋局は帰京した後にお江に仕えたとする史料も存在する[2][3]。