広島フォーク村
広島フォーク村(ひろしまフォークむら)とは、1968年11月、広島市の3つのフォーク団体が、合同で結成したアマチュアフォークサークル[1][2][3][4][5][6][7]。日本のフォークの源流の一つである[1][2]。最新の広島市の市史にも広島フォーク村は記述されている[8]。
歴史
編集初代村長となった伊藤明夫と吉田拓郎、蔭山敬吾の広島商科大学(現広島修道大学)の学生三人を中心に結成された[1][2][3][6]。拓郎は『月刊明星』1976年12月号のインタビューで「広島でフォーク村を組織したり、自分の居る場所を自分で作ってく。それがあの頃のオレたちのたった一つのやり方だったんだ」」などと述べている[9]。1968年の11月に拓郎が招集をかけ[4]、広島市内の喫茶店「ウインザー」に広島の各大学のフォークソング団体の代表者が集まったところから始まったとされてきたが[1]、集まった喫茶店は2015年現在も同じ場所で営業を続ける「朝日珈琲サロン」と判明している[4]。伊藤明夫は「広島フォーク村は大学のサークルではなく、当時広島にあったカワイ楽器系、ヤマハ系ともう一つの軽音楽の団体三つが、拓郎の『企業色のないもっと自由な団体を作ろう』という提案を受け出来たもの」と述べている[5]。広島フォーク村をバックアップしたのは、広島楽器センターの店長・波佐本保男[10]。広島生まれの波佐本は、航空特攻の予備兵である少年航空隊の一員として終戦を迎え、焼け野原になった広島で、"音楽は平和産業だから"という理由で楽器店を興した人だった[10]。60年代後半は地元の広島大学を始め、日本中の大学や高校で学園闘争の嵐が吹き荒れた時代[10]。波佐本は楽器や場所の提供の他、政治のために音楽を利用することを嫌った[10]。時には警察などの介入から学生たちを守るなど物心両面でフォーク村を支援した[10]。
1968年12月23日に広島市青少年センターで開村コンサートが開かれた[1][2][3][4][5][6]。拓郎は顧問という名目で参加したが、全てに於いて群を抜いており[5]、実質的リーダーでその人気は凄まじ[2]く[3][5]、拓郎の曲はレコード化されていないのに、広島のラジオでチャートインし、拓郎の曲を他のアマチュアがコピーする程だった[1][6]。
1970年、当時吹き荒れていた学園闘争の上智大学全共闘のメンバーとアルバム『古い船をいま動かせるのは古い水夫じゃないだろう』を自主制作[1][2][4][11][12]。同年4月、エレックレコードからこのアルバムが全国発売されて有名となった[1][2][5]。拓郎作品は「イメージの詩」、「マークⅡ」、「にわとりの小さな幸福」の3曲が収録されている[13]。アルバムタイトル「古い船をいま動かせるのは古い水夫じゃないだろう」は「イメージの詩」の歌詞の一節から命名されている[2]。この影響で各地に○○フォーク村が出来た[1][2][14]。フォークが地方での音楽拠点として大学生層を中心に広まっていた時代に、最も有名で、抜きん出たアマチュア団体が広島フォーク村だった[1][11]。1970年6月27日には、拓郎のプロデビューに合わせ、広島フォーク村の旗揚げコンサートが新宿厚生年金会館で開催され、広島発のフォークの波は東京にも進出し成功を収めた[1]。司会は蔭山敬吾[1]。最盛期には500人を超える規模だったといわれ[3][4]、後に猫や風に参加する大久保一久や[15]、愛奴を結成する浜田省吾や町支寛二らも在籍したが[2]、やはり拓郎の上京とともに求心力を失い1971年5月に一旦解散した[1][5][6]。村長だった伊藤明夫は就職が内定していたCBSソニーを辞め、エレックレコードに入社[5]。拓郎と行動を共にし、のちに拓郎や泉谷しげる、古井戸のマネージャーを務めた[5]。蔭山敬吾はCBSソニーに入社しのちに、愛奴をプロデビューさせた[16][17]。また拓郎は1971年にフォーク村の後輩を呼んで3人組のミニバンドを結成しており[18]、1971年に発表された拓郎の2ndアルバム『よしだたくろう オン・ステージ ともだち』の後編はミニ・バンドの演奏である[19]。
その後も何度か再結成され、村下孝蔵や上綱克彦、原田真二らも在籍した事がある[1][2][6][20][21]。元19の岡平健治の父親もメンバーだったという[22]。
蔭山敬吾は「フォークソング同好会というより、ポップ・ミュージックが大好きな集団だった。フォーク村といいながらも、ロックもR&Bもブルースもありで、ジャンルの壁など何もなかった。それが吉田拓郎という稀代のシンガー・ソングライターを輩出した、広島フォーク村というネットワークだった」などと述べている[3]。高校一年だった1970年にアルバム『古い船をいま動かせるのは古い水夫じゃないだろう』にザ・グルックスとしてオリジナル曲が収録された町支寛二は[2]、「考えてみれば、あの時代に自分たちでイベントを計画して実行していたというのは珍しかったですよね。大学生が運営してくれたんで、僕らは、それが普通のことのように受け止めてましたから、恵まれていた環境でもあったんでしょうね。他の街ではオリジナルを作っても発表も出来なかったでしょうし。中国放送のスタジオを借りて一発録りでレコーディングしたんですけど(他のアルバム楽曲は全て東京のスタジオ)[5][6]、普通の高校生の演奏がレコードになるなんて、有り得ないことですよ」[10]、「広島フォーク村がなければ今の自分はない。当時の大学生のお兄さん、お姉さんには一生頭があがらない」などと話し[2]、同じザ・グルックスのメンバーだった高橋信彦は「ああいうのは全国どこにでもあるんだと(当時は)思っていました」[10]、「地方の広島で、日本のフォーク史の最初期を体験できたことは奇跡。自分にとって誇りです」などと話している[2]。広島のような地方都市に他所に先んじて[4][10][23]、このような音楽団体が生まれた理由については、町支は「被爆があったから、という人もいますけど、広島には独特な人の繋がりがありますよね。音楽で言えばFEN(岩国放送)が聴けた、ということもあるのかな。流行にめざといヤツが多かった、ということなんでしょうか」などと解説している[10]。
2007年10月から2008年3月までCSで放送された"日本のフォーク・ムーブメント"の原点を旅する『なぎら健壱の音楽紀行「フォークの旅路」』では、その第1弾放送として広島フォーク村を紹介した「広島編」が放送された[24]。
作品
編集- アルバム
- 『古い船をいま動かせるのは古い水夫じゃないだろう』(1970年)
参考文献
編集- 鱒淵敏之『路地裏が文化を生む! 細街路とその界隈の変容』青弓社 2012年 第5章 広島フォーク村から見えるバックストリートの機能 p.184-201
脚注・出典
編集- ^ a b c d e f g h i j k l m n 馬飼野元宏「COLUMN 広島フォーク村」『日本のフォーク完全読本』シンコーミュージック・エンタテイメント、2014年、121頁。ISBN 978-4401639724。(日本のフォーク完全読本 |シンコーミュージック・エンタテイメント)。
- ^ a b c d e f g h i j k l m n “音楽活動にピリオド 原点は広島… 吉田拓郎に捧ぐ! “広島フォーク村” は永遠なり…”. TBS NEWS DIG. ジャパン・ニュース・ネットワーク (2022年7月19日). 2022年7月19日時点のオリジナルよりアーカイブ。2022年8月16日閲覧。伊藤遥 (2020年7月22日). “「吉田拓郎を聴いて東大やめた」 音楽評論家が語る魅力と功績”. 毎日新聞 (毎日新聞社). オリジナルの2022年7月21日時点におけるアーカイブ。 2022年8月16日閲覧。西村文 (2020年11月3日). “第77回中国文化賞受賞 シンガー・ソングライター 吉田拓郎氏(74)=東京都 「等身大」歌った先駆者”. 中国新聞デジタル (中国新聞社). オリジナルの2020年11月2日時点におけるアーカイブ。 2021年3月20日閲覧。西村文 (2018年10月4日). “広島フォーク村50年(下) 拓郎と『愛奴』”. 中国新聞 (中国新聞社). オリジナルの2021年9月30日時点におけるアーカイブ。 2021年9月30日閲覧。 田代俊一郎 (2019年6月17日). “九州近代歌謡遺聞 フォーク編<425>村下孝蔵(7)”. 西日本新聞社. 2020年5月30日時点のオリジナルよりアーカイブ。2022年8月16日閲覧。“【歌手引退】吉田拓郎、52年の活動を振り返ってみえた「日本音楽史のレジェンド」になれたワケ”. 週刊女性PRIME. 主婦と生活社 (2022年7月18日). 2022年7月19日時点のオリジナルよりアーカイブ。2022年8月16日閲覧。“くろしお 古い船を動かすのは…”. 宮崎日日新聞. 宮崎日日新聞社 (2021年10月5日). 2021年8月19日時点のオリジナルよりアーカイブ。2022年8月16日閲覧。中将タカノリ・橋本菜津美 (2022年7月21日). “2022年で活動に終止符 吉田拓郎の功績と名曲を回顧 『LOVE LOVE あいしてる』では若きKinki Kidsの育成も”. ラジトピ. ラジオ関西. 2022年7月21日時点のオリジナルよりアーカイブ。2022年8月16日閲覧。“「拓郎フェスティバル」実行委員長 白井千春さん(63)”. 中国新聞デジタル. 中国新聞社 (2022年8月11日). 2022年8月13日時点のオリジナルよりアーカイブ。2022年8月16日閲覧。
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- ^ 広島フォーク村になぜ奇跡が起きたのか 一一広島フォーク村40周年記念ライブに寄せて 、広島フォーク村になぜ奇跡が起きたのか 3、広島フォーク村になぜ奇跡が起きたのか 5、広島フォーク村になぜ奇跡が起きたのか 6、広島フォーク村になぜ奇跡が起きたのか 7、広島フォーク村になぜ奇跡が起きたのか 17、広島フォーク村になぜ奇跡が起きたのか 25、広島フォーク村になぜ奇跡が起きたのか 26(番外編8)
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- ^ a b 第24回――エレック - TOWER RECORDS ONLINE
- ^ 広島フォーク村になぜ奇跡が起きたのか 31(番外編13)、 広島フォーク村になぜ奇跡が起きたのか 39(謎解き編2一ver.2)、広島フォーク村になぜ奇跡が起きたのか 40(謎解き編3)
- ^ 広島フォーク村になぜ奇跡が起きたのか 33
- ^ 「山小屋の住人達」という素晴しい音楽集団。 フォークで乾杯#105
- ^ “伊勢正三ショック…フォークデュオ「風」の相棒・大久保一久さん死去、71歳”. サンケイスポーツ. 産経デジタル. (2021年9月16日). オリジナルの2021年9月15日時点におけるアーカイブ。 2021年9月30日閲覧。“【追悼】フォークデュオ「風」大久保一久さん 名曲「22才の別れ」にとどまらない唯一無二の世界観”. 日刊ゲンダイデジタル (日刊現代). (2021年9月18日). オリジナルの2021年9月21日時点におけるアーカイブ。 2021年9月30日閲覧。
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- ^ 第137回 高橋信彦氏 | Musicman-NET(Internet Archive)
- ^ 時の旅人 TIME TRAVELER –Hfm
- ^ よしだたくろう・オン・ステージ!!ともだち
- ^ 広島フォーク村 出身アーティスト、広島フォーク村 第2期広島フォーク村、365日 あの頃ヒット曲ランキング 【1983年6月】初恋/村下孝蔵、•Radicoプレミアム会員。 : 田家秀樹ブログ・新・猫の散歩、広島修道大学(旧広島商科大学)フォークソング部OB会 フォークソング部のルーツを探る、「広島出身ミュージシャン年代記(クロニクル)」『FLASH EXCITING』、光文社、2001年1月30日号、96-98頁。
- ^ 〈 2013年3月3日放送 〉テーマ:「広島フォーク村出身のアーティスト」特集
- ^ 19スペシャル インタビュー(Internet Archive)
- ^ 伊藤強「特集 文化的危機と芸術・芸能 『日本における歌謡・フォークと現代生活』」『季刊 科学と思想』1976年10月号 NO.22、新日本出版社、258-267頁。
- ^ 文化通信.com - 歌謡ポップスch、なぎら健壱の音楽紀行「フォークの旅路」
外部リンク
編集- 広島フォーク村
- ケータイde中国新聞 ケイタイでも読める「広島フォーク村」 - ウェイバックマシン(2009年3月26日アーカイブ分)