廣山望
廣山 望(ひろやま のぞみ、男性、1977年5月6日 - )は、千葉県袖ケ浦市出身の元サッカー選手。現在はJFAアカデミーU15指導者。ポジションはミッドフィールダー。(JFA公認S級コーチ)
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名前 | ||||||
愛称 | のんび | |||||
カタカナ | ヒロヤマ ノゾミ | |||||
ラテン文字 | HIROYAMA Nozomi | |||||
基本情報 | ||||||
国籍 | 日本 | |||||
生年月日 | 1977年5月6日(47歳) | |||||
出身地 | 千葉県袖ケ浦市 | |||||
身長 | 176cm[1] | |||||
体重 | 69kg[1] | |||||
選手情報 | ||||||
ポジション | MF | |||||
利き足 | 右足 | |||||
ユース | ||||||
1984-1989 | 蔵波FC | |||||
1990-1992 | 市川カネヅカSC | |||||
1993-1995 | 習志野高校 | |||||
クラブ1 | ||||||
年 | クラブ | 出場 | (得点) | |||
1996-2000 | ジェフユナイテッド市原 | 120 | (12) | |||
2001 | → セロ・ポルテーニョ(loan) | 29 | (3) | |||
2002 | スポルチ | 0 | (0) | |||
2002-2003 | ブラガ | 8 | (0) | |||
2003-2004 | モンペリエHSC | 7 | (0) | |||
2004-2008 | 東京ヴェルディ | 79 | (11) | |||
2005 | → セレッソ大阪 (loan) | 15 | (0) | |||
2009-2010 | ザスパ草津 | 73 | (3) | |||
2011-2012 | リッチモンド・キッカーズ | 39 | (0) | |||
通算 | 370 | (29) | ||||
代表歴2 | ||||||
1997 | 日本U-20 | 4 | (1) | |||
2001 | 日本 [2] | 2 | (0) | |||
1. 国内リーグ戦に限る。2012年12月13日現在。 2. 2001年10月7日現在。 ■テンプレート(■ノート ■解説)■サッカー選手pj |
経歴
編集プロ入りまで
編集千葉県市原市生まれ[3]。幼稚園時に袖ケ浦市へ転居した頃からサッカーを始めた[3]。習志野市立習志野高等学校では1995年に高校総体に優勝、千葉県選抜として第50回国民体育大会少年男子の部に優勝した[4]。サッカー部員は普通科ではなく商業科に進むのが普通だったが、廣山は普通科に在籍し[5]、3年間の評定平均値は4.8で学年1位であった[3]。
選手経歴
編集1996年にジェフユナイテッド市原に入団。同時に千葉大学教育学部保健体育学科に推薦入学し初の「国立大Jリーガー」として話題となった[3][5]。なお、千葉大学は入学後に中退している。市原では1年目からレギュラーに定着し[6]、5シーズンでJ1リーグ戦120試合に出場。1998年には7ゴール5アシストを記録した[6]。
海外移籍を念頭に置き日系パラグアイ人の代理人ロベルト佐藤と契約を結び、SEパルメイラス、ウニベルシダ・カトリカ、ナシオナル、セロ・ポルテーニョの計4チームからの誘いを受け、2001年1月にセロ・ポルテーニョへのレンタル移籍が決まった[6]。セロでは日本と全く違う環境に戸惑いながらも右サイドハーフのレギュラーを獲得。セロは前期、後期をともに制して国内リーグ優勝を決めた[6]。スーペルクラシコと呼ばれるセロとオリンピアとの試合では、チームは負けたものの廣山はゴールを決めた[6][7]。2001年コパ・リベルタドーレスに日本人選手として初出場し、7試合で2得点2アシストを記録した[8]。セロは1次ラウンドを突破しノックアウトステージに進出。強豪のクルス・アスルを相手にホームである初戦に2対1で勝利したが、アウェーで1対3で敗れ、2試合の合計得点によりベスト16で大会を去った。なおこの敵地の試合で廣山は途中出場ながら途中交代という屈辱的な結果に終わってしまった。セロではカップ戦も含めて合計48試合に出場した[6]。
2002年3月にブラジルのスポルチ・レシフェと契約を交わしたが[6][5]、労働ビザが降りないため選手登録できず、3ヶ月在籍して公式戦出場はなかった[6][5]。スポルチ移籍の際には、契約終了後のため移籍金は発生しないとする廣山側と、Jリーグの移籍ルールに則り保有権を主張する市原側が対立し、市原は国際移籍証明書を発行しなかった[9][10][11]。2002年にドイツのデュッセルドルフで開催されたチャリティマッチでは、かつて市原でともにプレーしたウィントン・ルーファーの推薦により世界選抜の一員として出場した[5]。
2002-03シーズンよりポルトガルのブラガに移籍。チーム合流から間もない時期に靭帯を痛めて出遅れ、シーズンを通して8試合の出場にとどまった[6]。2003-04シーズンはフランスのモンペリエと契約。開幕戦から4試合連続で出場していたが故障をきっかけに定位置を失い、リーグ戦7試合、カップ戦1試合の出場にとどまった[6]。シーズン後半はベンチからも外れ、リザーブチームでのプレーを余儀なくされた[6][5]。廣山はポルトガル1部、フランス1部のいずれにおいてもそのリーグでプレーする最初の日本人選手となった[5]。
2004年8月に東京ヴェルディ1969に移籍[12]。加入した2004年は出番が少なく、翌2005年にセレッソ大阪に期限付き移籍[13]。2006年はJ2に降格した東京Vに復帰[14]。本職のMFだけではなく、FWやSBも器用にこなすユーティリティプレイヤーとして、2007年のJ1昇格に貢献した。2008年シーズン終了後、契約の非更新により退団[15]。2009年からザスパ草津へ移籍[4]。2010年限りで契約満了で草津を退団し[16]、オフには合同トライアウトにも参加[17]。
2011年シーズンよりユナイテッドサッカーリーグ(USL)のリッチモンド・キッカーズへ移籍した。契約期間は2年[18]。2012年8月27日、自身のブログで現役生活からの引退を発表した[19]。8月25日のUSLプレーオフ1回戦に途中出場したのが現役最後の試合になった[5]。
代表
編集U-20日本代表がベスト8に進出した1997 FIFAワールドユース選手権では4試合出場1ゴール[8]。フィリップ・トルシエが監督を務めた1998年バンコク・アジア大会のU-21日本代表では5試合に出場[8]。
セロでの活躍が日本でも報じられると、代表の右サイドは左サイドに比べ人材不足だった事もあり、廣山待望論があがる。2001年7月のキリンカップでトルシエ率いるA代表に初招集されたが、試合中にスタンドから廣山の出場を願う「廣山コール」が沸き起こったにもかかわらず、2試合とも出場機会はなかった[20]。3ヶ月後の欧州遠征で再び代表に呼ばれ、2001年10月4日のセネガルとの国際親善試合で国際Aマッチデビュー[21]。しかしわずかな出場時間では見せ場を作れず、その後招集されることはなかった。 ジーコ体制下では、2003年10月のチュニジア・ルーマニア遠征に招集されるも出場はなかった。
引退後
編集2012年度日本オリンピック委員会海外指導者派遣制度に採用されスペインのバルセロナに留学[22](2013年 - 2014年)。現役中に日本サッカー協会指導者ライセンス公認B級コーチを取得している。
2014年2月よりJFAアカデミー福島[23]にて男子U-15コーチを務める。
ポジションのコンバート
編集本来右MFの廣山は、2006年に右SBに数試合コンバートされ、同年、今度はFWにコンバートされる。FWでのゴールは4得点と少なかったものの、どれも試合結果を左右する貴重なゴールであった。2007年、当初はFWに固定されていたが、フォーメーションの変更により右MFで起用された。
エピソード
編集ジェフユナイテッド市原・千葉のオフィシャルショップの通称「モオノキ」の名付け親でもある[24]。公文式のテレビCMにも出演していた。
福田健二とは小学校5年生から高校卒業まで同級生である。福田によると、廣山の印象は「キャプテン翼の翼くんのような少年」だったという。さらに、初対面の時に「僕、廣山望、よろしくね」と、福田に爽やかに挨拶したそうである[3]。
所属クラブ
編集- ユース経歴
- プロ経歴
- 1996年 - 2000年 ジェフユナイテッド市原
- 2001年 セロ・ポルテーニョ
- 2002年 スポルチ・レシフェ
- 2002年途中 - 2003年途中 SCブラガ
- 2003年途中 - 2004年8月 モンペリエHSC
- 2004年8月 - 2008年 東京ヴェルディ1969/東京ヴェルディ
- 2009年 - 2010年 ザスパ草津
- 2011年 - 2012年 リッチモンド・キッカーズ
個人成績
編集国内大会個人成績 | |||||||||||
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年度 | クラブ | 背番号 | リーグ | リーグ戦 | リーグ杯 | オープン杯 | 期間通算 | ||||
出場 | 得点 | 出場 | 得点 | 出場 | 得点 | 出場 | 得点 | ||||
日本 | リーグ戦 | リーグ杯 | 天皇杯 | 期間通算 | |||||||
1996 | 市原 | - | J | 21 | 1 | 8 | 1 | 1 | 0 | 30 | 2 |
1997 | 7 | 30 | 1 | 6 | 1 | 4 | 2 | 40 | 4 | ||
1998 | 16 | 30 | 7 | 4 | 2 | 1 | 0 | 35 | 9 | ||
1999 | 11 | J1 | 30 | 2 | 0 | 0 | 3 | 0 | 33 | 2 | |
2000 | 9 | 1 | 0 | 0 | 3 | 0 | 12 | 1 | |||
パラグアイ | リーグ戦 | リーグ杯 | オープン杯 | 期間通算 | |||||||
2001 | セロ・ポルテーニョ | 17 | リーガ・パラグアージャ | 29 | 3 | ||||||
ブラジル | リーグ戦 | ブラジル杯 | オープン杯 | 期間通算 | |||||||
2002 (pt) | スポルチ | セリエB | 0 | 0 | |||||||
ポルトガル | リーグ戦 | リーグ杯 | ポルトガル杯 | 期間通算 | |||||||
2002-03 | ブラガ | 8 | スーペル・リーガ | 8 | 0 | 1 | 0 | 9 | 0 | ||
フランス | リーグ戦 | F・リーグ杯 | フランス杯 | 期間通算 | |||||||
2003-04 (en) | モンペリエ | 14 | リーグ・アン | 7 | 0 | ||||||
日本 | リーグ戦 | リーグ杯 | 天皇杯 | 期間通算 | |||||||
2004 | 東京V | 7 | J1 | 4 | 0 | 1 | 0 | 1 | 0 | 6 | 0 |
2005 | C大阪 | 25 | 15 | 0 | 3 | 0 | 0 | 0 | 18 | 0 | |
2006 | 東京V | 20 | J2 | 27 | 4 | - | 1 | 0 | 28 | 4 | |
2007 | 32 | 7 | - | 1 | 0 | 33 | 7 | ||||
2008 | J1 | 16 | 0 | 4 | 1 | 1 | 0 | 21 | 1 | ||
2009 | 草津 | 10 | J2 | 44 | 3 | - | 2 | 0 | 46 | 3 | |
2010 | 29 | 0 | - | 0 | 0 | 29 | 0 | ||||
アメリカ | リーグ戦 | リーグ杯 | USオープン杯 | 期間通算 | |||||||
2011 | リッチモンド | 9 | USL | 20 | 0 | ||||||
2012 | 19 | 0 | |||||||||
通算 | 日本 | J1 | 155 | 12 | 26 | 5 | 14 | 2 | 195 | 19 | |
日本 | J2 | 132 | 14 | - | 4 | 0 | 136 | 14 | |||
パラグアイ | リーガ・パラグアージャ | 29 | 3 | ||||||||
ブラジル | セリエB | 0 | 0 | ||||||||
ポルトガル | スーペルリーガ | 8 | 0 | 1 | 0 | 9 | 0 | ||||
フランス | リーグ・アン | 7 | 0 | ||||||||
アメリカ | USL | 39 | 0 | ||||||||
総通算 | 370 | 29 |
その他の公式戦
- 1998年
- J1参入決定戦 1試合0得点
国際大会個人成績 | ||||
---|---|---|---|---|
年度 | クラブ | 背番号 | 出場 | 得点 |
CONMEBOL | リベルタドーレス杯 | |||
2001 | セロ・ポルテーニョ | 17 | 7 | 2 |
AFC | ACL | |||
2006 | 東京V | 20 | 2 | 0 |
通算 | CONMEBOL | 7 | 2 | |
AFC | 2 | 0 |
代表歴
編集出場大会など
編集- 1997年 - FIFAワールドユース
- 1999年 - シドニーオリンピック予選
試合数
編集- 国際Aマッチ 2試合 0得点 (2001)[2]
日本代表 | 国際Aマッチ | |
---|---|---|
年 | 出場 | 得点 |
2001 | 2 | 0 |
通算 | 2 | 0 |
出場
編集No. | 開催日 | 開催都市 | スタジアム | 対戦相手 | 結果 | 監督 | 大会 |
---|---|---|---|---|---|---|---|
1. | 2001年10月04日 | ランス | セネガル | ●0-2 | フィリップ・トルシエ | 国際親善試合 | |
2. | 2001年10月07日 | サザンプトン | ナイジェリア | △2-2 | 国際親善試合 |
指導歴
編集- 2013年 - 2014年 JOC スポーツ指導者海外研修(スペイン・バルセロナ)
- 2014年 - JFAアカデミー福島
- 2014年 U-15B 監督
- 2015年 U-15 監督
- 2016年 U-18 チャレンジ 監督
- 2017年 U-14 監督
- 2017年 - U-15日本代表 コーチ
脚注
編集- ^ a b c d e f 登録選手一覧表 Jリーグ 2010.12.05
- ^ a b “廣山 望”. サッカー日本代表データベース
- ^ a b c d e “ヴェルディ廣山選手インタビュー 後編”. 空間都市 八王子. (2006年10月24日) 2014年9月8日閲覧。
- ^ a b 「廣山望選手 東京ヴェルディより完全移籍のお知らせ」『J’s GOALアーカイブ』、Jリーグ、2009年1月17日 。2017年8月25日閲覧。
- ^ a b c d e f g h 田崎健太 「廣山望が駆け抜けた世界」 『サッカー批評 Issue 59』 双葉社、2012年、86-91頁。
- ^ a b c d e f g h i j k 加部究 「海を越えてきたフットボーラー 廣山望(セレッソ大阪)」 『サッカー批評 Issue 27』 双葉社、2005年、70-75頁。
- ^ “Paraguay 2001”. RSSSF. 2017年8月25日閲覧。
- ^ a b c https://www.jfa.jp/about_jfa/report/PDF/h_20120510_01.pdf
- ^ 「広山望独占インタビュー/「サッカーは世界がマーケット」」 『週刊サッカーマガジン』 ベースボール・マガジン社、2002年4月24日号 No.862、16-17頁。
- ^ “広山がブラガと1年契約/ポルトガルの中堅クラブ”. 四国新聞社. (2002年7月27日) 2017年8月25日閲覧。
- ^ “FIFAが救いの手 岡崎17日デビュー…期限付き移籍証明書発行へ”. スポーツ報知. (2011年2月14日). オリジナルの2011年2月16日時点におけるアーカイブ。 2017年8月25日閲覧。
- ^ 「広山望選手加入のお知らせ」『J’s GOALアーカイブ』、Jリーグ、2004年8月10日 。2017年8月25日閲覧。
- ^ 「廣山望選手移籍加入決定のお知らせ」『J’s GOALアーカイブ』、Jリーグ、2005年1月22日 。2017年8月25日閲覧。
- ^ 「廣山望選手復帰のお知らせ」『J’s GOALアーカイブ』、Jリーグ、2006年1月10日 。2017年8月25日閲覧。
- ^ 「契約満了選手のお知らせ」『J’s GOALアーカイブ』、Jリーグ、2008年12月11日 。2017年8月25日閲覧。
- ^ 「契約満了選手のお知らせ」『J’s GOALアーカイブ』、Jリーグ、2010年11月18日 。2017年8月25日閲覧。
- ^ “元代表の広山らJトライアウト参加”. nikkansports.com. (2010年12月14日) 2017年8月25日閲覧。
- ^ 広山がリッチモンド・キッカーズ移籍 - 海外サッカーニュース : nikkansports.com 2011年3月15日配信
- ^ 17年間 - nozomi-web 2012年8月27日配信
- ^ “2001年7月4日”. MASUJIMA STADIUM (2001年7月4日). 2017年8月25日閲覧。
- ^ “2001年10月4日”. MASUJIMA STADIUM (2001年10月4日). 2017年8月25日閲覧。
- ^ “世界で戦える選手を育成する。廣山望のサッカー指導者としての挑戦”. スポーツ応援サイトGROWING by スポーツくじ(toto・BIG). 2017年8月25日閲覧。
- ^ [1]
- ^ “Jリーグトリビアクイズ”. 日本コカ・コーラ. 2013年9月6日閲覧。
関連項目
編集外部リンク
編集- 廣山望 - National-Football-Teams.com
- 廣山望 - Soccerway.com
- 廣山望 - FootballDatabase.eu
- 廣山望 - WorldFootball.net
- 廣山望 - Transfermarkt.comによる選手データ
- 廣山望 - Transfermarkt.comによる指導者データ
- 廣山望 - FIFA主催大会成績
- 廣山望 - J.League Data Siteによる選手データ
- 廣山望 - BDFutbol.com
- 廣山望公式ホームページ
- プロフィール (PDF) 日本サッカー協会 2012.05.10