平福百穂
平福百穂(ひらふく ひゃくすい、1877年(明治10年)12月28日 - 1933年(昭和8年)10月30日)は、日本画家、歌人。
経歴
編集画家平福穂庵(順蔵)の四男として、秋田県角館(仙北市)に生まれた。本名は貞蔵。
幼い時から秋田市の豪商である那波家のコレクションなどで、秋田蘭画を見て育ったが、1890年(明治23年)から父から絵を学びはじめる。同年末に父が急死すると、翌年から父の後援者の援助を受け、本格的に絵を学び始める。同じ年の秋に開かれた亡父の追悼画会で画才を認められ、「百年」の百と「穂庵」の穂を取って「百穂」と号す。
1894年(明治27年)に上京し、四条派の第一人者川端玉章の内弟子となる。
1897年(明治30年)に川端塾の先輩だった結城素明の勧めにより東京美術学校に入学する。1899年(明治32年)に卒業後、翌1900年(明治33年)に素明らと无声会を結成、日本美術院のロマン主義的歴史画とは対照的な自然主義的写生画を目指す。1916年(大正5年)に金鈴社結成後は、中国の画像石や画巻、南画への関心を示す古典回帰が見られる作品を発表、やがて1932年(昭和7年)の「小松山」など、自然主義と古典が融合した作品を生み出すに至った。
一方で1903年(明治36年)頃からは伊藤左千夫と親しくなりアララギ派の歌人としても活動し、歌集「寒竹」を残す。島木赤彦は百穂の絵画頒布会を開催することで、「アララギ」の経営を助けた。また、秋田蘭画の紹介にも努めた。作家・田口掬汀と親しく、掬汀の孫の高井有一の小説『夢の碑』に、棚町鼓山として登場する。
平福は、平福を中心に川端龍子・小川千甕・小川芋銭らと日本画グループ「珊瑚会」を形成した[1]。「珊瑚会」は1915年(大正4年)から1924年(大正13年)まで10回の展覧会を主催している[2]。
1933年(昭和8年)10月25日、兄の急逝を受けて秋田県横手町を訪問中、脳溢血で倒れた。東京から三角和正、斎藤茂吉が駆けつけたが、回復しないまま同年10月30日に死去。同地で火葬に付された後、東京で葬儀が営まれた[3]。墓所は多磨霊園(5-1-10-15)と仙北市学法寺。
一族
編集顕彰施設
編集代表作
編集画集など
編集その他
編集現在も使われている岩波書店の出版物、裏表紙中央に配された「岩波」の壺形マークは平福百穂のデザインである。
研究文献
編集脚注
編集参考文献
編集- 展覧会図説「特別展 生誕百年記念 平福百穂 ―その人と芸術―」山種美術館 1977年
- 井澤英理子「珊瑚会の活動に見る大正期日本画の一様相」『山梨県立美術館 研究紀要 第17号』山梨県立美術館、2003年
- 井上隆明(監修) 著、秋田魁新報社 編『秋田人名大事典(第二版)』秋田魁新報社、2000年7月。ISBN 4-87020-206-9。