平知信
平安時代後期の貴族。桓武平氏高棟流。母は藤原雅信の娘。従四位上・出羽守・兵部大輔。『平知信朝臣記』。
平 知信(たいら の とものぶ)は、平安時代後期の貴族。桓武平氏高棟流、春宮亮・平経方の子。官位は従四位上・出羽守。知信の家系はいわゆる「日記の家」に属し、知信も『平知信朝臣記』を残した。
時代 | 平安時代後期 |
---|---|
生誕 | 不明 |
死没 | 康治3年2月19日(1144年3月24日) |
官位 | 従四位上・出羽守 |
主君 |
堀河天皇→鳥羽天皇→崇徳天皇→近衛天皇 家司:藤原忠実 |
氏族 | 桓武平氏高棟流(堂上平氏) |
父母 | 父:平経方、母:藤原雅信娘 |
兄弟 | 知信、祐子内親王家紀伊 |
妻 | 藤原惟信娘 |
子 | 時信、知範、信範 |
経歴
編集白河院政期前期の承徳元年(1097年)蔵人所雑色に補せられる。また、大学に入って文章生となり、康和4年(1102年)高階宗章の叙爵を受けて、雑色であった知信が後任として六位蔵人に補任された。長治2年(1105年)正月に検非違使左衛門少尉に任官。嘉承年間(1106年-1107年)頃より関白・藤原忠実の家司としての活動が見え始めるが、高い実務能力を買われて、その後も長きにわたって忠実家の家司として活躍した。天仁元年(1108年)兵部少輔に任ぜられる。天永・永久・元永(1110年-1119年)にかけて忠実の許で実務を熟す様子が多く記されている[1]。
鳥羽院政期初頭の天承2年(1132年)正五位下・少納言に叙任される。保延(1135年-41年)頃に出羽守として地方官も務めた。
康治2年(1143年)12月29日に重病により出家。最終官位は前出羽守従四位上。翌康治3年(1144年)2月19日卒去。
官歴
編集- 承徳元年(1097年) 12月29日:蔵人所雑色[2]
- 時期不明:文章生[2]
- 康和4年(1102年) 2月1日:六位蔵人[2]
- 長治2年(1105年) 正月27日:検非違使尉[2]。3月4日:見左衛門少尉[2]
- 嘉承2年(1107年) 10月22日:見藤原忠実家職事[2]
- 時期不詳:従五位下
- 天仁元年(1108年) 8月29日:兵部少輔[2]
- 天永3年(1112年) 8月21日:藤原忠実家司
- 天承2年(1132年) 正月22日:少納言[3]。2月28日:正五位下[2]
- 保延(1135年-41年)頃:出羽守[4]
- 康治2年(1143年) 12月29日:出家(前出羽守従四位上)[5]
- 康治3年(1144年) 2月19日:卒去[6]
系譜
編集脚注
編集参考文献
編集- 上杉和彦「平知信」『朝日日本歴史人物事典』朝日新聞社、1994年