平惟忠
平 惟忠(たいら の これただ)は、鎌倉時代の公卿。参議、大蔵卿正二位。父は従三位平親国。参議を辞してのち、薨去するまで10年近く大蔵卿の任にあった。
時代 | 鎌倉時代 |
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生誕 | 文治3年(1187年) |
死没 | 弘長3年1月21日(1263年3月2日) |
官位 | 参議、大蔵卿正二位 |
主君 | 後鳥羽天皇→土御門天皇→順徳天皇→仲恭天皇→後堀河天皇→四条天皇→後嵯峨天皇→後深草天皇→亀山天皇 |
氏族 | 桓武平氏高棟流行義系親宗流 |
父母 |
父:平親国 母:不明 |
兄弟 | 惟忠、有親、範親 |
妻 | 不明 |
子 | 親継、女子(堀川基具室、あるいは堀川具守室[1]) |
経歴
編集以下、『公卿補任』及び『尊卑分脈』に基づいて記述する。
- 承久4年(1222年)1月29日、従五位上に昇叙[2]。
- 貞応元年(1222年)8月28日、少納言に任ぜられる。
- 嘉禄3年(1227年)1月5日、正五位下に昇叙。
- 寛喜元年(1229年)9月5日、斎宮寮頭に任ぜられる。
- 天福元年(1233年)6月20日、皇后宮権大進に任ぜられる。
- 嘉禎2年(1236年)12月29日、大進に転任。
- 嘉禎3年(1237年)3月7日、従四位下に昇叙。
- 暦仁元年(1238年)12月30日、備中守を兼ねる。
- 暦仁2年(1239年)1月5日、従四位上に昇叙[3]。
- 仁治元年(1240年)10月24日、修理権大夫に任ぜられる。
- 仁治2年(1241年)1月5日、正四位下に昇叙[4]。
- 仁治3年(1242年)3月7日、内蔵頭に任ぜられる。同年12月25日、摂津守を兼ねる。
- 寛元4年(1243年)2月23日、大宰大弐に任ぜられる。同年11月23日、従三位に叙せられる[5]。
- 建長3年(1251年)1月22日、参議に任ぜられる[6]。同年12月22日、正三位に昇叙。
- 建長4年(1252年)12月4日、息男親継を左衛門権佐に申任のため参議を辞す。
- 建長6年(1254年)1月5日、従二位に昇叙。同年8月9日、大蔵卿に任ぜられる。
- 正嘉元年(1257年)9月8日、正二位に昇叙。
- 弘長3年(1263年)1月21日、薨去。享年77。