平塚川添遺跡
平塚川添遺跡(ひらつかかわぞえいせき)は、福岡県朝倉市平塚にある弥生時代中期から古墳時代初頭(紀元前1世紀から西暦4世紀ごろ)にかけての複合遺跡である。国の史跡に指定されている(1994年(平成6年)5月19日指定)[1]。
地理
編集筑紫平野の東端近く、現在の朝倉市域西部の沖積平野に位置している。遺跡の西側には筑後川支流の小石原川が流れ、遺跡は小石原川流域に含まれる標高20メートル程度の微高地で、福田台地の西端部にある。遺跡の東側には同じく筑後川支流の佐田川が流れる。当遺跡の周辺は筑後川とその支流の小石原川・佐田川・荷原川(いないばるがわ)により形成された平野であり、北東にある平塚山の上遺跡をはじめとして、同時代の遺跡がいくつか存在する。
発掘調査
編集1990年(平成2年)に平塚工業団地の造成中に発見され、当時の甘木市教育委員会と福岡県教育委員会により翌1991年(平成3年)8月から1993年(平成5年)5月まで発掘調査が進められた。
遺構としては約17ヘクタールの範囲に多重の環濠、竪穴建物跡約300棟、掘立柱建物跡約100棟が確認されている。中央部に内濠に囲まれた約2ヘクタールの楕円形の「中央集落」と称する集落があり、住居とみられる竪穴建物のほか、中央部と北東隅に大型の掘立柱建物跡が検出されている。中央集落の外側には複雑な環濠に囲まれた「別区小集落」と称する複数の小集落の跡が検出されている。別区小集落には木器や玉などの遺物が集中する場所があり、住居とは別の区域に工房が存在したと推定されている。遺物は生活土器のほかに銅矛・銅鏃・鏡片・ などの青銅製品や、農具・建築部材・漁具などの木製品が出土しているが、鉄製品は出土していない。植物はアシ・ブドウ・ハンノキ・イチイガシ・ツブラジイ・コナラ・ヤマモモなどが出土している。
時代としては中国の歴史書に記されている倭国大乱から邪馬台国の時代にあたり、このような集落構造が当時の「クニ」の実態を理解する上で極めて重要であるとして、1994年(平成6年)に遺跡部の112,073.88平方メートル(約11ヘクタール)の区域が史跡に指定された。
平塚川添遺跡公園
編集発掘調査終了後、甘木市では1996年(平成8年)から文化庁・福岡県の補助を受け遺跡を整備し、2001年(平成13年)に平塚川添遺跡公園として開園した。環濠・竪穴建物・高床倉庫などの当時の建物、古代植生などが復元設置されている。
ギャラリー
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祭殿
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柵列
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体験学習館
交通アクセス
編集脚注
編集- ^ 教育部文化・生涯学習課文化財係. “朝倉市平塚川添遺跡公園01”. 朝倉市. 2022年10月11日閲覧。
参考文献
編集- 『平塚川添遺跡I』甘木市文化財調査報告書第53集、甘木市教育委員会、2001年
- 『平塚川添遺跡 保存整備事業報告書』甘木市文化財調査報告書第54集、甘木市教育委員会、2001年
- 『平塚川添遺跡II』甘木市文化財調査報告書第64集、甘木市教育委員会、2004年
外部リンク
編集座標: 北緯33度23分40秒 東経130度39分04秒 / 北緯33.39439903度 東経130.65106931度