市川元教
市川 元教(いちかわ もとのり)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将。毛利氏の家臣。父は山口奉行を務めた市川経好。
時代 | 戦国時代 - 安土桃山時代 |
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生誕 | 不明 |
死没 | 天正6年3月6日(1578年4月12日) |
別名 | 通称:少輔七郎 |
墓所 | 築山館跡(山口県山口市大殿大路) |
主君 | 毛利元就→輝元 |
氏族 | 藤原南家工藤流吉川氏庶流市川氏 |
父母 | 父:市川経好 |
兄弟 | 元教、元好、隆久、伊予守、女(今田土佐守室) |
子 | 景好(隆好)、 景延[1] |
生涯
編集天正6年(1578年)に豊後国の大友義鎮(宗麟)に内応し反乱を企てたが、そのことを父・経好に察知され、経好の密命を受けた雑賀隆利や内藤元輔らによって殺害された。
活動期間が短いため、その人生には不明点が多い。毛利一門であり、父母も武器を取って大友氏の勢力と戦っていたにもかかわらず、何故大友氏の誘いに乗ったのか、その理由は不明である。
また、元教は謡曲「采女の山郭公」の小鼓が得意であったため、元教の死後、山口では采女を謡うことを控えたと言われている。