市岡忠吉
この記事のほとんどまたは全てが唯一の出典にのみ基づいています。 (2019年3月) |
市岡 忠吉(いちおか ただよし)は、戦国時代の武士。はじめ甲斐武田氏、のち徳川氏家臣。
時代 | 戦国時代 |
---|---|
生誕 | 天文6年(1537年)[注釈 1] |
死没 | 慶長5年7月13日(1600年8月21日)[1] |
別名 | 五左衛門[1] |
戒名 | 清心[1] |
墓所 | 府中車返村本願寺[1] |
主君 | 甲斐武田氏→徳川家康 |
氏族 | 市岡氏 |
父母 | 父:市岡正則[1] |
子 | 忠次[1] |
経歴・人物
編集初め武田信玄に仕えるが、武田家没落後の天正16年(1588年)駿府にて徳川家康に拝謁し、以後徳川家に仕える[1]。天正18年(1590年)の小田原征伐では信濃国飯田城を守衛する[1]。同年武蔵国府中にて300石を賜い天守番を勤める[1]。
経歴には、名を宗重(むねしげ)といい、はじめ美濃国岩村城主遠山左衛門佐某のもとにあり、のち信濃国下條兵庫助某の家に寓居。兵庫助の死後、家康の命で飯田城を守護し、天正14年(1586年)浜松にて家康に拝謁し、領地を賜った。とする説もある[1]。