工藤精一 (地質学者)
工藤 精一(くどう せいいち、1855年3月 - 1906年12月)は、明治時代の教育者、化学者、地質学者。開拓使派遣留学生として米国留学し、帰国後に札幌農学校(現・北海道大学)教授(助教)、立教大学校(現・立教大学)教授、専修学校(現・専修大学)教授を務めた[1][2]。札幌農学校教員時代には、演武場(現・札幌市時計台)の時計保守も担い、運用を開始した[3]。開拓使官員、陸軍通訳官も務めたほか、英語学習書を出版するなど、明治期の英語教育の発展に尽くした。別名、精一郎[2]。
人物・経歴
編集東京生まれ。1872年3月26日(旧暦明治5年2月18日)、17歳の時、開拓使派遣留学生として横浜港から飛脚船「アメリカ号」で米国サンフランシスコへ向けて出航[2][4][5]。
ニュージャージー大学(現・プリンストン大学)に入学した折田彦市と入れ替わるように、1872年からミルストンの牧師館に住み、コーウィンの指導を受ける[6]。 コーウィンは、日本的な学識・学力は十分だが、英語力が不足する留学生を牧師館に住まわせて教育し、富田鐵之助をビジネス・カレッジに、折田をニュージャージー・カレッジに、工藤をラトガース・カレッジに進学させるだけの英語力・欧米の知識等を身につけさせた[6]。
工藤は、後にオランダ改革派教会で洗礼を受けた[6]。また、聖職者になりたい希望を明らかにするが諦めた[7]。
1873年(明治6年)12月25日には、留学生への帰国決定がなされ、それに伴い開拓史留学生のほとんどが1874年3月までに帰国することになるが、永井繁、津田梅子、山川捨松の3名の女子留学生以外では、既に私費留学扱いであった新島七五三太(新島襄)のほか、山川健次郎、二木彦七ととともに、私費に転じて留学を継続する[2]。
1878年(明治6年)、ラトガース大学を卒業(B.A.)[1]。工藤は渡米当時は英語を話せなかったが、大学卒業時には成績順位一桁(9番以内の成績)で卒業するまでになっていた[6]。また、ラトガース大学時代は田尻稲次郎と親交があった[8]。ラトガース大学にも創設されていた学術団体であるファイ・ベータ・カッパ(PBK)の会員でもあった。このPKBは、1776年のアメリカ独立とともにウィリアム・アンド・メアリー大学で創設され、その後各地の大学に支部が組織されていったが、ラトガース大学のPKBは、後に来日して日本の教育制度の整備に貢献したダビッド・モルレーが1869年2月に設立し、初代会長を務め、副会長はウィリアム・グリフィスが務めた。2代目会長はジョージ・クック教授、3代目はキャンベル(William Henry Campbell)学長、4代目はクーパー(Jacob Cooper)教授が就任している[9]。
1879年3月に帰国し[2]、翌年1880年5月に、札幌農学校(現・北海道大学)の教員(地質学)に就任[1][8]。同校では地質学のほか、化学、天文学、歴史、英語も教えた[1]。
1881年(明治14年)、札幌農学校の演武場(現・札幌市時計台)に農学校の観象台で天文観測を行っていた米人教師ピーポデーの協力により塔時計が設置されるが、運転開始の準備として時計の保守や時間調整を行っていたピーポデーが完成前に帰国したため、地質学の教員であった工藤が保守運用を引き継いだ。工藤は同年8月12日の塔時計運転開始報告を書いている[10][3][11]。
1883年3月には、橘協、豊原百太郎、大島正健、南鷹次郎、内田瀞、山崎益、宮部金吾らとともに、同校助教に就任。着任年齢は豊原の35歳を除けば、皆20歳代という若さであった(1名は年齢は不明)[1][12][6]。2か月後の同年5月には助教を辞任している[12]。
その後、上京して、立教大学校(1883年設立、現・立教大学)の教授となり、阪本安則とともに数学を教えた[13]。この時の教え子に根岸由太郎(後の立教大学教授)がいる[14]。立教大学校の教員は訳読と数学を除き、全員が外国人教員であった[13][15]。
1885年には、英語初学者や英語を晩学独習する人向けの英語学習書として『英語訓蒙』を出版するなど、明治期の日本の英語教育の発展に寄与した。
また、親交のあった田尻稲次郎が設立した専修学校(現・専修大学)でも教えた[8]。
1901年(明治34年)陸軍の通訳官に任命され、北京や天津の駐屯軍司令部に派遣されていたが、1906年(明治39年)12月に脳充血を患い[16]、赤十字社病院にて死去した[17]。
主な著作
編集脚注
編集- ^ a b c d e 北海道大学「第二章 札幌農学校の設置(1876~1886)」『北大百年史』、北海道大学、1982年7月、29-74頁。
- ^ a b c d e 井上 高聡「開拓使による海外留学生派遣意図の変遷」『北海道大学大学文書館年報』第14巻、北海道大学大学文書館、2019年3月、1-20頁。
- ^ a b 札幌市時計台 『時計機械の保守 農学校時代の時計保守』
- ^ 国立国会図書館デジタルコレクション 『太政官日誌 明治5年 第1-28号』 太政官 慶4-明9
- ^ 塩崎 智「1872年3月26日横浜発サンフランシスコ行き,アメリカ号日本人渡航者の調査 ―先行研究発表後四半世紀の関連研究成果のまとめ―」『拓殖大学論集. 人文・自然・人間科学研究』第44巻、拓殖大学人文科学研究所、2020年10月、75-107頁、ISSN 13446622。
- ^ a b c d e 高橋 秀悦「幕末維新のアメリカ留学と富田鐵之助――「海舟日記」に見る「忘れられた元日銀總裁」富田鐵之助(5)――」『東北学院大学経済学論集』第186号、東北学院大学学術研究会、2016年3月、1-91頁、ISSN 1880-3431。
- ^ rhstraveler's blog ラトガース大学と日下部太郎 『工藤精一』 2018-11-23
- ^ a b c 手塚 竜麿「幕末・明初にラトガーズで学んだ日本人」『日本英学史研究会研究報告』第1967巻第70号、日本英学史学会、1967年2月、1-5頁。
- ^ 羽田 積男「来日前のダビット・モルレーについて」『日本比較教育学会紀要』第1986巻第12号、日本比較教育学会、1986年3月、75-81頁。
- ^ その後、工藤の元で誰が実際に時計の運用保守作業、重りの巻き上げ作業を行っていたのかは分かっていない。
- ^ 童謡「この道」と札幌時計台 『札幌時計台の呼び名の変遷について』
- ^ a b 井上 高聡「札幌農学校における農学分野の分化と実科演習の成立)」『北海道大学大学文書館年報』第18巻、北海道大学大学文書館、2023年3月、1-16頁。
- ^ a b 国立国会図書館デジタルコレクション 『立教大学一覧 昭和14年度』立教大学 昭和14年
- ^ 『立教大学新聞 第34号』 1926年(大正15年)5月25日
- ^ 『立教大学新聞 第31号』3面 (印刷は第36号と誤植)1926年(大正15年)4月25日
- ^ 『教育界』第6巻第6号(明治教育社、1907年4月)p.118
- ^ 『慶應義塾學報』第113号(慶應義塾學報發行所、1907年1月)p.77