川崎市女子職員内ゲバ殺人事件

川崎市女子職員内ゲバ殺人事件(かわさきしじょししょくいんうちゲバさつじんじけん)とは、1975年昭和50年)3月27日神奈川県川崎市川崎区で発生した中核派による内ゲバ殺人事件。

川崎市女子職員内ゲバ殺人事件
場所 日本の旗 日本神奈川県川崎市川崎区宮本町 川崎市役所
座標
北緯35度31分52.3秒 東経139度42分10.7秒 / 北緯35.531194度 東経139.702972度 / 35.531194; 139.702972座標: 北緯35度31分52.3秒 東経139度42分10.7秒 / 北緯35.531194度 東経139.702972度 / 35.531194; 139.702972
日付 1975年昭和50年)3月27日
午後4時35分ごろ (日本標準時)
概要 中核派革マル派の内ゲバ
懸賞金 なし
攻撃手段 被害者を職場から呼び出し、鉄パイプで殴る。
攻撃側人数 3
武器 鉄パイプ
死亡者 1
被害者 革マル派シンパの女性
損害 なし
犯人 中核派活動家
関与者 中核派
謝罪 なし
賠償 なし
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中核派革マル派による内ゲバは殺人を伴う激しいものになっていたが、女性が殺害された事件は全国で初めてであった[1][注釈 1]

事件の概要

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1975年(昭和50年)3月27日午後4時35分ごろ、神奈川県川崎市川崎区宮本町川崎市役所裏口の路上で若い男の3人組が川崎市職員の女性(以下、N)を鉄パイプで頭などを滅多打ちにする事件が発生した。その時、Nは周囲に助けを求めたが、気を失って倒れてしまい、その後、病院に運ばれたが左後頭部頭蓋骨骨折で既に死亡していた。3人組の1人はその場で市職員らにより取り押さえられ、川崎警察署員が殺人の現行犯でその男を逮捕した[1][3]

県警によると、3月27日午後4時ごろ、川崎市役所に勤務中のNに男から電話があり、Nは市役所裏の駐車場に呼び出された。Nは男達と話していたが、やがて口論となり、Nが逃げようとしたところを男たちが背後からNを鉄パイプで滅多打ちにした。その後、3人組は川崎駅方面に逃げようとしたが、うち一人が警察に捕まった。現場には長さ52~62センチメートル、直径2.5センチメートルの鉄パイプ3本が残され、握りと先端は布テープで巻かれ、中は鉛が埋められていた[1][3]

逮捕された男は警察の調べに対し黙秘したが、「横浜の前進社に連絡してくれ」と話したことや、同支社の住所や地図の書かれた手帳を持っていたことから、県警は3月28日、横浜市中区長者町9丁目「前進社神奈川支社」を殺人の疑いで家宅捜索し、機関紙『前進』の他、鉄パイプ、鉄材、ビラなどを押収した[1][4]

男の身元確認は難航したが、ビラを配り情報提供を呼び掛けたところ、実兄が名乗り出たことで身元が判明し、3月29日殺人罪送致された[5]

その後、『前進』は同年3月31日号で声明を発表し、「反革命白色テロ分子を完全せん滅(中略)川崎市職潜入分子Nに復讐の階級的鉄槌」と、中核派の最高幹部本多延嘉殺害事件(同年3月14日)に対する報復であると表明した[5]

中核派はこの事件後も革マル派関係者を標的にした殺人事件を繰り返し、双方の内ゲバは激化していった。

Nは都立日比谷高校卒業後、1967年(昭和42年)4月、現役で東京教育大学文学部ドイツ文学専攻に入学した。その後、Nは学内の演劇研究会に入会したが、このサークルは革マル派の拠点だった。ただ、Nは同大学の筑波移転反対闘争が激化していた1968年(昭和43年)秋においても、演劇への情熱を持っていた[6]

1971年(昭和46年)春には、人数が減っていた大学内サークル「教育大学新聞会」に、他の学生とともに新しく入会したが、従来の会員は退会・卒業によっていなくなっていた。その『教育大学新聞』は、1973年(昭和48年)4月10日号を最後に、彼女の卒業とともに廃刊になっている。このことから、他の革マル系会員が新聞発行にあまり熱心でない中で、Nがひとりで『教育大学新聞』を支えていたのではないかとの見方もある[7]

1973年(昭和48年)3月、東京教育大学を卒業したNは川崎市で初めての大学出身の女性事務職員として採用され、市民局広報課第二係に配属、市政だより、ポスター製作などを担当していた。また、その時のNは革マル派幹部と親密な関係にあり、同派の集会によく参加していたという。事件の1か月ほど前から連日のように若い男から市役所のN宛に電話がかかり、その都度Nは「人違いでしょう」「忙しいから失礼します」と電話を切っていた。事件当日の3月27日にも、午後3時頃に若い男から市役所にN宛ての電話があり、そして、4時過ぎにNが職場から急に居なくなり、事件に遭ったのである[1][3]

Nの父によると、Nは高校在学中から学生運動を始め、大学は活動のために進級が遅れ、6年間在籍した。就職後もNは活動を続け「身辺に危険があるから」という理由で、実家近くのアパートで一人暮らしをしていたという[3]

東京教育大学の学生・卒業生が内ゲバの被害者となった事件としては、この他に「東京教育大学生リンチ殺人事件」がある。

脚注

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注釈

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  1. ^ 女性を標的にした内ゲバ事件は1974年(昭和49年)秋ごろから急に目立ち始め、1975年(昭和50年)1月11日夜には自宅マンションに居た22歳の革マル派の女性が中核派男女10人に襲われ大けがをしていた[2]

出典

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  1. ^ a b c d e 「内ゲバで女性殺人 川崎市役所の美人職員 呼び出され鉄の乱打 悲鳴に通行人ら追跡 三人組の一人逮捕」『読売新聞』1975年3月28日、東京朝刊、19面。
  2. ^ 「女性多い革マル 犠牲者初めて 組織動揺ねらう?」『読売新聞』1975年3月28日、東京朝刊、19面。
  3. ^ a b c d 「悲惨 内ゲバ過熱 女子市職員殺される 川崎市役所裏 三人組が襲う」『朝日新聞』1975年3月28日、東京朝刊、23面。
  4. ^ 「横浜の前進社捜索 中核派にも“要さいアジト” 川崎のゲバ殺人 屋上に見張り二か所 インターホンや望遠鏡」『読売新聞』1975年3月28日、東京夕刊、9面。
  5. ^ a b 衆議院 法務委員会. 第76回国会. Vol. 第5号. 19 November 1975. 226. 諫山博の質疑:ビラを五万枚印刷して配付いたしまして、それを見た一般人がこのビラであれば非常に似た人がいるということで協力をしてくれまして、それが実は本人の実兄だったわけでございます。
  6. ^ 『置文21』編集同人 2011, p. 86.
  7. ^ 東京教育大学新聞OB会 Nさん”. 東京教育大学新聞OB会. 2020年8月26日閲覧。

参考文献

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  • 『置文21』編集同人『回想の全共闘運動―今語る学生叛乱の時代』彩流社、2011年10月27日。ISBN 9784779116858 

関連項目

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外部リンク

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