川上久朗
戦国時代の武将 (1537-1568)
川上 久朗(かわかみ ひさあき)は、戦国時代の武将。島津氏の家臣。
時代 | 戦国時代 |
---|---|
生誕 | 天文6年(1537年) |
死没 | 永禄11年2月3日(1568年3月1日) |
別名 | 通称:源三郎 |
戒名 | 随岳良順居士 |
墓所 | 鹿児島市の福昌寺 |
官位 | 左近将監 |
主君 | 島津義久 |
氏族 | 川上氏 |
父母 | 父:川上忠克 |
兄弟 | 忠頼、久朗、忠実、女子、島津実久継室 |
子 | 久辰 |
略歴
編集久朗は島津氏の庶流川上氏の一族であることに加え、若い頃から智勇兼備の誉れが高く、その才能は島津忠良や島津義久にも高く評価され、天文22年(1553年)に17歳にして当主の義久から島津氏の家老職、並びに谷山[1]の地頭にまで任命されるという異例の抜擢を受けている。更に、義久の命で老中となり没年までその地位にあった。
先陣での功績も多く、弘治元年(1555年)の蒲生氏攻略、永禄4年(1561年)の肝付兼続との廻城合戦等、各地で奮戦している。その才能を遺憾なく発揮して武功を挙げたが、永禄11年(1568年)1月20日、相良・菱刈連合との戦いで、赤池長任と菱刈勢の籠る大口城攻めの際、島津義弘を守るために孤軍奮闘して13ヶ所もの深手を負い、鹿児島に帰還したが翌月3日に死去した。享年32。
久朗は若くから才幹を見込まれ、忠良もその名を看経所に記して将来を頼むほどであった。