嵐 珏松郎(あらし かくまつろう、1878年6月15日 - 没年不詳)は、日本の男優、元歌舞伎役者である[1][2][3][4][5][6][7]。芸名を嵐 旺松郎嵐 斑松郎嵐 珀松郎とするのは誤りである[2][8]。本名は金子 松三郎(かねこ まつさぶろう)[1][2][3][4] とされるが、金兒 松三郎(読み同じ)[5]金子 重三郎(かねこ じゅうざぶろう)の説もある[6][7]四代目嵐璃珏門下の歌舞伎役者から映画俳優に転じ、尾上松之助を支える名脇役として活躍、松之助の死後も河部五郎大河内傳次郎などの主演映画に多数出演していた[1][2]

あらし かくまつろう
嵐 珏松郎
嵐 珏松郎
1925年の写真、満47歳。
本名 金子 松三郎(かねこ まつさぶろう)
生年月日 (1878-06-15) 1878年6月15日
没年月日 不詳年
出生地 日本の旗 日本 三重県飯高郡松阪町(現在の同県松阪市
職業 俳優、元歌舞伎役者
ジャンル 歌舞伎劇映画時代劇剣戟映画サイレント映画トーキー
活動期間 1895年 - 1934年
著名な家族 嵐珏十郎(実父)
主な作品
実録忠臣蔵
眞田幸村と大助
拳骨と忍術の漫遊
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人物・来歴

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1878年(明治11年)6月15日三重県飯高郡松阪町(現在の同県松阪市)に生まれる、とされている[3][4][7]。『日本映画俳優全集 男優編』(キネマ旬報社)など一部の資料によれば、生年月日は「1878年5月15日」である旨が記されている[1][2][5]。また、『日本映画俳優名鑑 昭和四年版』(映画世界社)によれば、生年月は「明治九年六月」(1876年6月)とされていた[6] が、翌年発行された『日本映画俳優名鑑 昭和五年版』(同)以降は、上記通りに改められている[7]。実父は歌舞伎俳優嵐珏十郎であった[1][2]

1895年(明治28年)、満17歳の時に実父・珏十郎と同じく関西歌舞伎の名題役者四代目嵐璃珏の門弟となり、初舞台を踏む[1][4][5][6][7]。『芸能人物事典 明治大正昭和』(日外アソシエーツ)では、満19歳となる1897年(明治30年)ころに四世璃珏の門人となった、とある[2]。以後、四世璃珏と共に各地を巡業し、実父と共に関西歌舞伎に名代出演する歌舞伎役者にまで成長した[1][2][7][9]

1913年(大正2年)、牧野省三の招聘により、日活京都撮影所に入社[1][2][3][5][6]。『映画新研究十講と俳優名鑑』(朝日新聞社)など、1912年(大正元年)に同所入社とする資料も存在する[1][4][7]。同年1月21日に公開された牧野省三監督映画『八犬伝』(『里見八犬伝』)で犬坂毛野を演じ、映画デビューを果たす[1][4][5][6]。以来、尾上松之助一派に加入し、1917年(大正6年)ころから本格的にサイレント映画に出演するようになるが、翌1918年(大正7年)10月には一時舞台に戻る[1][2]。この間、1917年(大正6年)に天然色活動写真が製作した映画に出演したとされているが、詳細は不明である[1]。ところが、同年11月24日に四世璃珏が急逝したため、同年末には日活京都撮影所に復帰している[1][2]。以降、1924年(大正13年)1月14日に公開された築山光吉監督映画『拳骨と忍術の漫遊』など、松之助映画の殆どに出演した[1][2][4][5][6][7][9]

1926年(大正15年)9月11日、尾上松之助が満50歳で急逝した後も、1928年(昭和3年)5月31日に公開された伊藤大輔監督映画『新版大岡政談 第一篇』や、同年9月27日に公開された池田富保監督映画『維新の京洛 竜の巻 虎の巻』など、主に河部五郎大河内傳次郎ら新人スタアの主演映画に引き続き助演[1][2][6][7]實川延一郎中村仙之助(山田純三郎)らと共に日活時代劇を支える古老として活躍し、また年齢につれて池田富保が監督を務める大作で大御所的役柄に座ることが増えた[10]

『映画新研究十講と俳優名鑑』などによれば、京都府京都市下京区西ノ七条東上ノ町71番地に住み、趣味は魚釣りで、嗜好物はお酒である旨が記されている[4][5][6][7]

1932年(昭和7年)10月、日活専務取締役に新任した中谷貞頼による大解雇事件に遭い、嵐亀三郎尾上卯多五郎尾上華丈阪東巴左衛門らと共に退社[1][11]。退社後はフリーランサーとなっており、満55歳になる1933年(昭和8年)6月1日に当時日活系の太秦発声映画が製作した池田富保監督映画『楠正成』に出演、珏松郎にとっての初のトーキーであった[1][2][10]。ところが、翌1934年(昭和8年)11月1日に公開された古海卓二監督のトーキー『旅鴉お妻やくざ』以降の出演記録が見当たらない[1][2][10]。以後の消息は全く伝えられておらず、また、1940年(昭和15年)に日活太秦撮影所の撮影所長だった池永浩久の発願によって、京都府京都市上京区にある法輪寺に奉祀された映画関係者400名余りの霊牌の中にも、珏松郎の名前は刻銘されていない[1][2][9]没年不詳

おもなフィルモグラフィ

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脚注

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  1. ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r s 『日本映画俳優全集 男優篇』キネマ旬報社、1979年、23頁。 
  2. ^ a b c d e f g h i j k l m n o p 『芸能人物事典 明治大正昭和』日外アソシエーツ、1998年。 
  3. ^ a b c d 『人気役者の戸籍調べ』文星社、1919年、156頁。 
  4. ^ a b c d e f g h 『映画新研究十講と俳優名鑑』朝日新聞社、1924年、162頁。 
  5. ^ a b c d e f g h 『日本映画年鑑 大正13年・14年』東京朝日新聞発行所、1925年、127頁。 
  6. ^ a b c d e f g h i 『日本映画俳優名鑑 昭和四年版』映画世界社、1928年、100頁。 
  7. ^ a b c d e f g h i j 『日本映画俳優名鑑 昭和五年版』映画世界社、1929年、123頁。 
  8. ^ #外部リンク、「嵐旺松郎」「嵐斑松郎」「嵐珀松郎」、allcinema ONLINE、2009年11月7日閲覧。
  9. ^ a b c 映像フェスタ「京都映画草創期」調査報告立命館大学、2009年11月7日閲覧。
  10. ^ a b c #外部リンク、「嵐珏松郎」、日本映画データベース、2009年11月7日閲覧。
  11. ^ 『キネマ旬報』昭和7年10月1日号、キネマ旬報社、11-12頁。

関連項目

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外部リンク

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