崔鳴吉
崔 鳴吉(さい めいきつ、朝鮮読み:チェ・ミョンギル(최명길)、Choe Myeong-gil、隆慶2年8月25日(1568年10月7日) - 順治4年5月17日(1647年6月19日))は、李氏朝鮮の文官・儒者。字は子謙、号は遅川。本貫は全州崔氏。
略歴
編集父は永興府使の崔起南。母は参判の柳永立の娘。文科に合格した後、趙翼や張維などと交わり、学問を修練し陽明学に至るまで研究をした。1614年(光海君6年)に兵曹佐郎を務め、西人派に属し仁祖反正(1623年)に加担し王の光海君を追放し、金自點等と仁祖を擁立し、その功績により定社功臣一等となり、完城府院君に封じられて、吏曹参判となり備辺司堂上を兼任し、その後弘文館副提学・司憲府大司憲の要職を歴任していく。1636年12月、清が大軍をもって侵入し(丙子の乱)、最後まで戦おうとする金尚憲・洪翼漢等の斥和論に対して、現実に則した主和論を唱えて激しく批判を浴びたが、清に降服条件を打診することなど講和を主導した。彼は王子らとともに瀋陽まで連行されたが、堂々として終始卑屈な気配を見せなかった。斥和論を主張し対立した金尚憲は彼のその態度に和平を主張したのは直向に国を守る忠義心からであることを知って感動した[1]。1642年に領議政となり、1647年に没した。
性理学や文章に優れた才能を発揮し、董其昌体の書をよくした。著書に「遅川集」全19冊と『遅川奏箚』全2冊がある。諡号は文忠。博川(パクチョン)の遅川祠に祀られた。
登場作品
編集- 映画
- テレビドラマ
脚注
編集- ^ 金尚憲は子孫に崔氏の家と代々付き合っていくように遺言をしている。
参考文献
編集- 世界大百科事典 第2版(日立ソリューションズ・クリエイト)
- 松坡区公式HP