崔譔
経歴
編集南朝陳の陸徳明が著した『経典釈文』の序録には『荘子』の注釈者として名前が掲げられ、10巻27篇(内篇7・外篇20)があったと伝えられている[1][2]。
『経典釈文』によれば、清河郡の人で晋に仕えて議郎になったと記されている[1][2]。『隋書』経籍志には東晋の議郎であったと記されているが、『世説新語』文学篇の注に引用された『向秀別伝』には向秀が崔譔の『荘子』の注釈書を読んで遺忘を補おうとして自らも『荘子』の注釈書を書いたと記されており、魏・西晋に仕えた向秀が崔譔の著作を読んだことを踏まえると、崔譔は向秀と同時代の人[注釈 1]で、彼が仕えたのは西晋であったことになる[2]。
西晋では崔譔の『荘子』の注釈は、同時代の向秀・司馬彪・郭象の注釈書と共に知られていたが、先行する3人の説を取り込んだ郭象の注釈書が広く読まれるようになり[1]、『隋書』経籍志には崔譔の注釈書は南朝梁まで伝わっていたが、その後亡んだと記されている[2]。
脚注
編集注釈
編集出典
編集参考文献
編集- 古勝隆一『中国中古の学術と社会』法藏館、2021年 ISBN 978-4-8318-7752-9