崔楷
経歴
編集崔弁の子として生まれた。成長すると、風貌が美しく、性格が剛直なことで知られた。奉朝請を初任とし、員外散騎侍郎となり、広平王元懐の下で文学をつとめた。正始年間、元懐が宣武帝に軟禁されると、広平王の属官の多くは処刑されたが、崔楷と楊昱はたびたび元懐を諫めていたことから刑を免れた。後に尚書左主客郎中・伏波将軍・太子中舎人・左中郎将となった。高肇と親しく、515年(延昌4年)に高肇が処刑されると、崔楷は御史中尉の元匡の弾劾を受けたが、霊太后による赦令を受けた。
このころ河北の数州がたびたび洪水の被害に遭っていたため、崔楷は治水の方策を上疏し、施行されることになったが、端緒につく前に洛陽に召還されて取りやめとなった。
524年(正光5年)、京兆王元継が大将軍となり莫折天生を討つと、崔楷はその下で司馬をつとめた。525年(孝昌元年)、凱旋すると、後将軍・広平郡太守に任じられた。葛栄の乱を討つよう孝明帝に命じられ、持節・散騎常侍・光禄大夫・兼尚書北道行台となった。まもなく軍司に転じた。526年(孝昌2年)、定州と相州の4郡を分割して殷州が置かれると、崔楷は殷州刺史に任じられ、後将軍の号を加えられた。527年(孝昌3年)1月、葛栄に殷州の州城(広阿)を落とされ、殺害された。享年は51。