島津久経
鎌倉時代中期の武将
島津 久経(しまづ ひさつね)は鎌倉時代中期の武将。島津氏の第3代当主。鎌倉幕府御家人。第2代当主・島津忠時の嫡男(次男)。初名は久時。
島津久経勢(蒙古襲来絵詞より) | |
時代 | 鎌倉時代中期 |
生誕 | 嘉禄元年(1225年) |
死没 | 弘安7年4月21日(1284年5月7日) |
改名 | 久時、久経 |
神号 | 真明履道男命[1] |
戒名 | 浄光明寺殿 道忍義阿弥陀佛[1] |
墓所 | 鹿児島市本立寺、出水市感応寺 |
官位 | 下野守、修理亮、贈正三位[1] |
幕府 | 鎌倉幕府 |
氏族 | 島津氏 |
父母 | 父:島津忠時、母:得台夫人(伊達念西の妹)[1] |
兄弟 | 山田忠継、久経、高久、忠康、忠佐、久時、忠経、久氏[1] |
妻 | 浄温夫人(相馬胤綱の娘)[1] |
子 | 忠宗、久長 |
生涯
編集文永2年(1265年)、父から家督を譲られて鎌倉に赴き、有力御家人の一人として昼番衆に任じられた。建治元年(1275年)、焼失した六条八幡造立のため40貫を納め[2]、同年元寇のために九州に戻り、筑前の守備を命じられた。弘安4年(1281年)の弘安の役では島津軍を率いて参戦し、大いに活躍して武功を挙げた。
弘安7年(1284年)、鹿児島に浄光明寺を建立する。同年4月21日、筑前の筥崎役所で死去した。享年60。墓地は鹿児島市の本立寺。または出水市野田町の感応寺。跡を子の忠宗が継いだ。
弘安の役での活躍は、『蒙古襲来絵詞』に描かれている。