島崎正樹
幕末の国学者。父は島崎重韶(吉左衛門、中山道馬籠宿の本陣・庄屋・問屋)。島崎家17代。子に高瀬園子(1855-1921、夫に高瀬薫、養子に高瀬兼喜)
島崎 正樹(しまざき まさき、天保2年5月4日(1831年6月13日 - 明治19年(1886年)11月29日)は、幕末の国学者。
島崎正樹肖像 年不詳 | |
人物情報 | |
---|---|
全名 | 島崎吉左衛門重寛 |
別名 | 鍛名太郎(幼名)・宮之丞・禎三郎・禎蔵・重寛(初名)・吉左衛門(通称)・禎夫(字)・松翠園静雅(号)・粲園・静舎・観山桜・璞堂[1] |
生誕 |
1831年6月13日 日本・信濃国馬籠宿(現・岐阜県中津川市) |
死没 |
1886年11月29日(55歳没)[2] 日本・長野県神坂村 |
国籍 | 日本 |
配偶者 | 縫(ぬい) |
両親 | 父:島崎重韶 |
子供 |
高瀬園子 島崎秀雄 島崎広助 島崎友弥[注釈 1] 島崎春樹 |
学問 | |
時代 | 明治時代 |
学派 | 平田派 |
研究分野 | 国学 |
影響を受けた人物 |
蜂谷源五郎正氏 市岡殷成 間秀矩 馬島靖庵 平田鐵胤 |
影響を与えた人物 | 島崎藤村 |
人物
編集中山道馬籠宿の本陣・庄屋・問屋を兼ねる島崎吉左衛門重韶の子として生まれ、長じて家督を継いだ。
中津川宿の問屋役であった、間秀矩(はざま ひでのり)に国学を学び、また中津川の医師の、馬島靖庵に皇学・漢学を学び、
文久3年(1863年)に秀矩の紹介で平田篤胤の没後門人となる。また自ら馬籠に私塾を開いて子弟に教授した。
安政5年(1858年)以降、三度にわたり村内の火災に際して窮民の救恤に奔走して尾張藩から賞された。
明治2年(1869年)から木曽谷の官有山林の地元への解放運動に奔走するが、明治5年(1872年)に戸長を罷免された。
明治7年(1874年)、上京して教部省考証課雇員として出仕するが、明治天皇の輿に憂国の歌を書き記した扇子を投げたことで、不敬罪に問われた。
明治8年(1875年)に岐阜県飛騨一宮水無神社の宮司となり、権中講儀を兼ねるが、
明治11年(1878年)、明治天皇の北陸地方巡幸に際し、憂国の建白を試みて叱責され、挫折をくり返した末に精神を病んだ。
脚注
編集注釈
編集参考文献
編集- 『日本人名大辞典』 講談社、2001年
- 『朝日日本歴史人物事典』 朝日新聞出版、1994年