岩沢正作
日本の考古学者
岩沢 正作(いわさわ しょうさく、岩澤 正作、1876年(明治9年)6月4日 - 1944年(昭和19年)6月21日)は、日本の博物学者、考古学者、郷土史家。大間々共立普通学校で教鞭を執るかたわら、考古学を中心に郷土史研究の成果を『上毛及上毛人』『毛野』上で発表した。『山田郡誌』の執筆にも加わっている。号は四拙、香蒲。
岩沢正作 | |
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生誕 |
1876年6月4日 神奈川県都筑郡都田村 |
死没 | 1944年6月21日 |
研究分野 | 博物学、考古学、郷土史 |
主な業績 | 火山灰考古学の先駆的研究、土器の形式編年分析 |
プロジェクト:人物伝 |
「赤城の主」「群馬の南方熊楠」といった異名があるほか、生徒から「たこ」「ひげ仙人」「輝石安山岩」「かけら先生」といったあだ名をつけられている[1]。
経歴
編集- 明治9年6月4日 - 神奈川県都筑郡都田村の農家に、父卯之助、母クニの次男として生まれる[2]。
- 明治34年10月20日 - 高松中学校に赴任[3]。
- 明治35年9月30日 - 博物学の教諭として前橋中学校に赴任[3]。
- 明治38年4月10日 - 高崎中学校に転任[4]。
- 明治45年3月31日 - 高崎中学校を依願退職[5]。
- 明治45年7月 - 妻須永キンの実家のあった群馬県山田郡大間々町に戸籍を移す[1]。
- 大正3年1月 - 大間々共立普通学校校長、井上浦造(勢多郡宮城村出身)により、同校教諭として招かれる[6]。
- 大正6年12月 - 豊国覚堂が大正2年に設立した上毛郷土史研究会に入会。以後機関誌「上毛及上毛人」に77篇の研究稿を寄せる[7]。
- 大正10年 - 群馬県史蹟名勝天然紀念物調査会委員[1][8]。
- 昭和4年6月 - 岩沢を会長として毛野研究会発足[9]。
- 昭和6年1月 - 毛野研究会機関誌『毛野』発刊[9]。
- 昭和9年11月 - 陸軍特別大演習に際し、昭和天皇に「群馬の陸産貝」という題目で御進講[10][11]。赤城山行幸の案内役も務める。
- 昭和10年 - 毛野貝類研究会、毛野山草会発足[12]。
- 昭和13年 - 大間々共立普通学校を退職[13]。
- 昭和19年6月21日 - 講演先の赤城少年道場(大胡町)で倒れ死去[1][14]。
著作
編集- 以下は『毛野』で執筆した内容が単行本として出版されたもの。
- 『上毛及上毛人』誌上で発表した論稿。
- 「諸磯式土器について」(114号) 等
脚注
編集- ^ a b c d 大間々町誌編さん室 編『大間々町誌 通史編 下巻』大間々町誌刊行委員会、2001年、657頁。
- ^ 関口 2000, p. 10.
- ^ a b 関口 2000, p. 58.
- ^ 関口 2000, p. 14.
- ^ 関口 2000, p. 61.
- ^ 関口 2000, p. 62.
- ^ 関口 2000, p. 47.
- ^ 関口 2000, pp. 100–101.
- ^ a b 関口 2000, p. 49.
- ^ 関口 2000, p. 78.
- ^ 大間々町誌編さん室 編『大間々町誌 通史編 下巻』大間々町誌刊行委員会、2001年、661頁。
- ^ 大間々町誌編さん室 編『大間々町誌 通史編 下巻』大間々町誌刊行委員会、2001年、665頁。
- ^ 関口 2000, p. 64.
- ^ 関口 2000, pp. 101–101.
- ^ 大間々町誌編さん室 編『大間々町誌 通史編 下巻』大間々町誌刊行委員会、2001年、659-660頁。
参考文献
編集- 関口克巳『岩澤正作・人と業績』みやま文庫、2000年。
- 大間々町誌編さん室『大間々町誌 通史編 下巻』2001年