岩松満純
岩松 満純(いわまつ みつずみ)は、室町時代前期の武将。上野新田荘の国人領主。父は新田義宗で[1]、養父は岩松満国と伝わり、妻は上杉氏憲(禅秀)の娘で那須資之、千葉兼胤は相婿。子に家純。
時代 | 南北朝時代 - 室町時代前期 |
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生誕 | 不詳 |
死没 | 応永24年閏5月13日(1417年6月27日) |
改名 | 容辻王丸(幼名)、満純、天用(法号) |
官位 | 治部大輔 |
氏族 | 河内源氏岩松氏(新田氏) |
父母 |
父:新田義宗(諸説あり)[1] 養父:岩松満国(諸説あり) |
兄弟 | 満氏、満純、満長、満親、満春 |
妻 | 正室:上杉氏憲の娘 |
子 | 家純 |
生涯
編集正平23年/応安元年(1368年)に戦死した新田義宗の落胤といわれ、本人もそのように自称した。『系図纂要』には、義宗と満国の妹との間に生まれたのが満純であるとあるが、前半生ははっきりとはわかっていない。
兄に満氏がいたが、早くに亡くなったため、満純が岩松氏の後継となった。後に犬懸上杉家出身で関東管領となる上杉禅秀の娘を娶る。応永23年(1416年)の上杉禅秀の乱では舅の上杉禅秀に味方し、鎌倉公方足利持氏追放に功績を挙げた。この際に義宗の落胤として新田姓を自称したという[要出典]。
しかし、持氏が室町幕府の援助を受けて反攻してくると、新田荘に敗走した。しかし隣の佐貫荘の国人領主舞木持広の追討を受け、武蔵入間川の戦いに敗れて捕縛され、応永24年(1417年)に鎌倉の竜の口で斬首された。
この満純の動きに父の満国は同調せず静観し、満純の死後、孫の持国(満純の弟満春の子)に家督を譲り岩松家を継がせた。廃嫡されたもう1人の孫の家純(満純の遺児)は出家した。
後に、家純は祖父の死後に6代将軍足利義教の後押しにより復権し勢力を持ち、岩松家は家純流(礼部家)と持国流(京兆家)に分裂した。
脚注
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