岩城景隆
岩城 景隆(いわき かげたか)は、江戸時代前期の出羽国亀田藩の世嗣。
時代 | 江戸時代前期 |
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生誕 | 承応3年(1654年)[1]または正保4年(1647年)[2] |
死没 | 元禄9年4月18日(1696年5月18日)[2] |
別名 | 百助、権之助[1][2] |
戒名 | 孤嶽院廓山了然[2] |
墓所 | 秋田県由利本荘市岩城赤平の竜門寺[2] |
藩 | 出羽亀田藩世嗣 |
氏族 | 岩城氏 |
父母 | 岩城重隆 |
兄弟 | 涼雲院蓮室理清[2]、景隆、松平清当正室、平次郎ら |
妻 | 小笠原長次娘・慈光院覚宗玄正[2] |
子 | 秀隆 |
略歴
編集出羽国亀田藩3代藩主・岩城重隆の長男として誕生。正室は小笠原長次娘。
重隆の嫡子であったが、素行の悪さから天和2年(1682年)、29歳で廃嫡され幽閉された[3]。元禄9年(1696年)、家臣からの声もあり、重隆は彼を赦免しようとしたが、その直前に死去した。
嫡子の座は、景隆の長男・秀隆が継承した。
脚注
編集出典
編集- 『寛政重修諸家譜』
- 『亀田岩城家譜』